東京国立近代美術館ゴーギャン展を見たのは先々週だっただろうか。少し意外だった。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」が、あまり良くなかったのだ。この作品はゴーギャンの代表作とされており、実際今回の展覧会の目玉として扱われていたのだけれど、いざ会場で現物を見てみたら、あれっと思うような違和感があった。一度次の展示室に移って、改めて戻って再見してみた。やはり良くない。理由はごく簡単で、画面の絵の具の密度が低く、多くの色面が恣意的なヴァルールを持ち浮いている。だからどこか大味な塗り絵のような表面になっている。


もちろん、この作品が持つ興味深い点は確かにあって、それは要素の多さが引き起こす図像学的な多重性と複雑さということになるだろう。実際会場ではこの作品の様々な部分に関する知見(過去のゴーギャンの作品からの転用・引用、またそれらが持つ意味合いの読解etc.)がパネルで図示されていたり映像で紹介されてもいたのだけれど、それらは、少なくとも私にとって絵画の本質ではないしゴーギャンの魅力でもない。もう少し丁寧にいえば、そういった図像的複雑性の強度といったものは、現実的な絵の組成、即ち基底材と絵の具と色彩とマチエールの織物が形成する総合的なテンションによって初めて支えられる物だ。端的にいってゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は絵としてやや粗雑に見えるし、私にはいわば「企画倒れ」の作品に見える。


ポジティブに見ようと思えば、考えられるのはその画面の「ちぐはぐさ」だ。この作品がゴーギャン芸術の「集大成」であって一つの偉大な(崇高な?)「総合」である、という言い方は少なくともその語感から間違っている気がする。この作品の面白さはむしろ「集まってなさ」であり断片性ではないか。横に長く分散する様々な人物や動植物や神の像はどこか無関係に点在している。例えば画面向かって左下から順に白い鳥、頭部を両手で押える人、手を地面についている女性というユニット、その右上の神の像、そのわきにいる女性、下に座る少女、中央やや右の果物をとる人、その隣の背を見せる人、暗い中を道行く2人、右下の3人の女性と子供、犬、という主要なモチーフはほぼコラージュ的に、その輪郭で切り取られる。人物の大きさも、下辺に近い座る少女は明らかに小さすぎるし中央の女性は大きすぎる。統一的遠近法がない。


この「非-総合性」と、抵抗感のない、ぬるい絵の具のテクスチャーが引き起こすのはまるで見ていた夢の具現化といった感触で、左上に描かれた文字などからも、どこかアウトサイダー・アートのような奇妙なイマジネーションがある。とはいえ、私にとってゴーギャンとは、セザンヌと似て非なる強固なタッチが生み出すハードなビートと、それに宿る色彩のごく特異な(他にあのような色使いをする画家がまったく思い浮かばない)硬質性にあるのであって、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」に限ればヘンリー・ダーガーの「非現実の王国で」の長大な図像の方が近しい気がする。


だから、この作品が「人気作」となるのはまったく不思議ではないのだけれど、「最高傑作」と呼ばれるのは納得がいかない。この展覧会で見られた最良の作品群はむしろ初期の、印象派を学びつつ独自に展開していった時期のものではないか。この時期にはゴーギャンのスタイルというようなものはまだ見られないし、そういう意味では目立たないかもしれないけれども、作品の実質というのは「スタイル」といった通俗性とはまったく無関係にあるのであって、実直でありながら細部に鋭いエッジを形成する初期作品は、最初からある程度この画家が高い水準で絵を描いていた事が分かる(逆に細部のそういったこまやかなテクニックが鼻につくところもないではないが)。木版画は素直に刷らず様々な工夫を行った作家本人の刷りのものはあまり成功していない。後にゴーギャンの子供が発行したストレートな刷りのものの方がずっと良い。


あと、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」への照明が明らかにきつくて画面が見づらかった。今時あんなに強い照明をマスターピースとされる作品に当てている展示も珍しい。ボストン美術館はOKを出していたのだろうか。妙にムーディーにする必要はないが、会場全体の照度を落としてもう少し柔らかな灯りをまんべんなく当ててほしかった。展覧会は既に終わっている。