殻々工房blogに、現在開催中の個展の記事がエントリされました。


以下引用。

 さて、世界内存在(In-der-Welt-sein)がそのなかで生じている当の根本構造を見ることが重要です。世界はどのようなものとして与えられているのでしょうか。世界はもともと、理論的認識の客観として与えられているのではなく、環境世界として、つまり私が見て回ったり、何かを成し遂げたり、配慮的に気遣ったりする場として与えられています。諸対象は、まずは理論的認識の客観ではなく、私がかかわる事象、つまり、何に役立つか、何に利用し使うかという諸指示を内包している事象です。最初に与えられているのは、物理学が考える意味での物質的事物ではありません。身近に与えられている世界にもとづいて自然を科学的に解明するのは、複雑な過程を経たあとではじめて得られる結果です。ごく身近な世界は実際的・実践的な配慮的気遣いの場所です。−環境世界とその対象は空間の中に存在します。環境世界のこの空間は幾何学の空間ではありません。この空間は、近さや、遠さや、あるほうを向く諸可能性などという〔環境世界の対象との〕かかわりの諸契機によって、本質的に規定されています。したがって、それは幾何学の空間の等質的構造を持っていません。むしろ、規定された特別なさまざまな場所を持っています。たとえば、家具からの隔たりは、量として与えられているわけではなく、家具とのかかわりから開示される諸次元のうちで与えられているのです(手が届くとか、あいだを通り抜けられるとか、いった具合です)。環境世界のこの空間は、画家が発見することを課題とする空間でもあります。この空間にもとづいて特定の過程を経ることによってはじめて、幾何学の空間はつくり上げられるのです。

 生の現存在はさらに、私自身と同じ存在性格をそなえながら現実には異なったものたちが共に現存在していることによって規定されています。ほかの人間たちがそれです。私たち人間は、相互存在という独特のあり方をしています。私たちはみな同じ環境世界をもち、同じ空間のうちに存在していまう。空間は私たちにとって相互的なものであり、私たち自身が互いにたいして〔向かいあいながら〕現に存在しているのです。ところが、この空間のなかの椅子たちは、すべてこの空間のなかに存在してはいますが、しかしこの空間を現にもっているわけではありません。−世界内に存在すること(Das Sein-in-der-Welt)はしたがって相互に存在することなのです。
ハイデッガー「カッセル講演」平凡社ライブラリー・後藤嘉也訳より)


批判的に読む−こういった言い方が傲慢だとすれば、私はきっと「素材*1」として読んでいる。たとえば、なんとなくここでの「人間」を「作品」と重ねて誤読してみること。無論作品は認識主体ではないからそのような変換はありえない(すぐにこの言い換えは破綻する)。しかし、そんな根本的な過ちを犯すことで得られるインスピレーションがある。私に、あるいは製作に必要なのは反論されないただしさではない。生産的なミステイクなのだと思う。

*1:上山和樹氏による