上山和樹さんのblogにて、とてもインスパイアされる形で私の個展を紹介していただきました。


私には、このエントリが単にオンライン上で、かつて意見交換をしたことのある相手への儀礼的なtxtではないと感じられました。追記によって更に明瞭になっていると思うのですが、このエントリ自体が「制度分析」になっている−たとえば、端的に言って、「上山和樹という制度」の分析になっている。勿論、記述とは常にそうである、と言う事は可能です。しかしそれこそウルトラというものです。上山さんのエントリは今回に限らずいつもそうなのですが、分析の結果を書いているのではなく、書く事自体が分析としてある。そのことに、相変わらずの緊張感を感じざるを得ません。


この有り様は、私の考える「製作」と平行性を描きます(私が上山さんの影響を受けているのだから適切な言い方はほかにあり得るでしょうが)。絵を描く事は、なんらかの思考、分析の「結果」として行われるのではない。絵の具を置く、その行為自体が「制度分析」として立ち上がっていなければならない(セザンヌの「サント・ビクトワール山」とは、そのような屹立としてあるのではないか)。キャンバスに触れて行く、その一つ一つの所作が、画面を、そして同時にその画面を支えている制度を分析していくような製作。


もちろん、その分析とは硬直したものではありえない。むしろ軽く、リズミカルに、ダンスを踊るように、時には脱力したような姿勢で立つものだと思います(体に力が入っていると「ボルテージ」は上げられても「テンション」はむしろ下がる-ボルテージとテンションの関係についてはこちらをご参照下さい。サッカーの話ですが、製作にも同じ事が言えると思います→id:eyck:20060620)。このようなエントリで展示をインフォメーションしていただいた事に深く感謝します。


上山さんの書くものを単純に美術に援用することに対する危険性は、繰り返し書いたことですが(上山さん自身が美術・芸術に対して極めてセンシティブな態度をとられている以上、こちらも慎重になるべきでしょう)、しかし、例えば下記のようなエントリに対して、美術に携わるものが無感覚でいることはとても難しいと思います。以下、上山さんのblogから引用します。

「概念を創造する」といっても、すでにある生産態勢で「創造」したって、同じルーチンでしゃかりきになることでしかない。 本当に必要なのは、考える態勢そのものを変えることであり、嗜癖的な労働ルーチンを組み直すことだ。
組み直すことが自己目的なのではない。――私が取り組もうとしているのは、嗜癖的固着を避けるための、持続的な臨床活動に当たる。
「批評は臨床である」というのは、言葉遊びではないはずだが、今では臨床家の言説そのものが、嗜癖的に硬直している。


日々絵を描いている、そしてそれを発表している。その事自体が分析されるべきであって「社会的成功」とかは様々な分析対象の1つでしかない(「売れていない事」が制度分析を免れる免罪符にはなりようがない)。製作はナルシシズムの単純再生産のシステムではない、といういわば当たり前の事実を、改めて認識させられました。