・上山さんとのやりとりの中で、改めて「ボルテージとテンション」について考えたのだけれど(参照:id:ueyamakzk:20091020)、これがある程度「身体性」に関わる問題系である、という連想はすぐに働く。そして「身体性」は絵画においてブラッシュストロークに連結される、という素材が先の「組立」対話企画〈筆触・イメージ・身体〉において遡上に上がった(参照:id:tsukasakimihoさんによる対話企画メモid:tsukasakimiho:20090513)。


・ブラッシュストロークが20世紀/21世紀の境目において、国内の意識的な作家によって時として抑圧されまた迂回されていたことは昨年の私のエントリ「ブラッシュストロークの現在地点」(参照:id:eyck:20080422およびid:eyck:20080423)において示したけれども、このような抑圧は、原理的にはボルテージを切断することでテンションを召喚しようとしていたと、雑駁ではあるけれども言う事ができるのではないか。だが、ここでボルテージとテンションを考える時、拙速に「身体性」という言葉を使うことは、時として誤解を産むことになりやすい。ボルテージとテンション、という視座から身体あるいは身体性という言葉を考え直したい。


・画家のインデックスとしてのブラッシュストロークを、いわば極端に拡大していく、その過程で筆のような道具=媒介システムがメルトダウンし、身体の直接性によって、いわばブラッシュストロークが内包する近代性を解除していこうとしたのが1960年代から1970年代にかけてのアバンギャルドの運動だとまとめてしまえば、これは2005年の国立近代美術館「痕跡」展の内容と重なっていくが(参照:http://www.momat.go.jp/Honkan/TRACES/)、こういった経緯から産まれた身体が、いつかしらフェティシュ化あるいはクリシェとなった先に現れた「ニューペインティング」なるもの-いわば「感性」を表象するものとしての筆の復古とそこに刻印される「私の身体」-等への抵抗として、1980年代にブラッシュストロークの抑圧は開始された(とこれまた纏めてしまう)。


・こういった美術の脱-身体化は、1990年代以降工業製品の表面や広告的パッケージ、あるいは映像コンテンツといった「ポップ」イメージとリンクしていく。そして、いつしかポップ=資本の持つ圧倒的なボルテージが、周囲の環境を繊細に感受しながら自立した系として代謝してゆく姿勢=テンションを、救出しきる前に美術に再侵攻してきた、と考えることは可能だろう。意識的なアーティストは、常にボルテージを回避しテンションを擁護しようとしてきた(舞台芸術の文脈でいえば、先に物故したピナ・バウシュが連想されるだろうか)。ここで身体/意識(理性)という二元論が間違いであることが露呈する。テンションは身体を含みつつそれが一部であるような/逆に言えば理性や意識を含みつつそれが一部であるような何事かから繰り出される。「身体性」ということばの危険性は、こういった二元論が予め抱え込まれてしまうところにある。


・テンションを生み出す「何事か」は、身体あるいは身体性ではなく、むしろ言葉としては「構え(かまえ)」として言い表した方がいいように思う。この「構え」は、例えば演劇において、役者が舞台にたつ「こころもち」のようなものに近いが、この「こころもち」は、けして意識あるいは心的状態だけに還元されないし、身体だけにも還元されない。一種の「姿勢」であり「準備」だと言っていい。現在、いくつかの徴候として現れているブラッシュストロークの復興を、「身体性」の復権としてみてしまうことは極めて危険だし多くの場合間違いだと思う。それはいわば「身体性」という言葉に含まれる二元論を越えた場所で「構え」を検討・構築・構成し、その先において改めてテンションの高原状態を現出させようという試みなのではないだろうか(まったく余談だが、剣道の師範をしている私の義父が言っている「姿勢」のようなものも、ここでの「構え」に共通するものを感じる。武道というのは意外にヒントになるのかもしれない)。