芸術家は政治や社会制度に関わらないものだ、という通念は、それが存在するところではごく強力なイデオロギーになっている。同時に、そういう態度を批判するとき、芸術は政治に、あるいは「現実に」コミット“すべき”だという言い方があって、これも違うと私は思う。


芸術は政治と無関係ではない。また芸術は政治そのものでもない。端的に言って芸術は政治や社会制度を包摂しているのだ。芸術について深く考えていることは本質的な意味で政治や社会制度について考えることに等しい。逆は成り立たない-政治について深く考えても、芸術への思考足り得ない。これはごく簡単な話で、政治より芸術の方が大きいものなので、芸術及び芸術を巡る思考から政治をトリミングすることは可能だが逆はできない。


このエントリは単なる政治に対する芸術家の優位を言いたい文言ではない。また芸術家のナルシシズムを満たそうという文言でもない。むしろ逆で、多くの芸術に関わる人に私は疑問を持っている。だいたいの傾向として、芸術を志す人というのは現実的な政治に、あるいは社会制度に関心がないか避けて通る。そのことは別にいいと思うし、私自身も普段の多くをそうやって過ごしている。けれども、芸術について考える過程で必然的に接点を持つ筈の現実の世界の有り様(以前書いた通り芸術は世界と代謝してゆく思考だ。参考:id:eyck:20090128)に対して考えを巡らせること、そしてそれを表明しようとする動きを批判するのは間違っている。


「画家は黙っていい絵を描け」というイデオロギーと内面化については以前も「組立」blogで書いたけれど(参考:id:nagase001:20090526:p2)、同様のことが言える。社会、あるいは現実の政治を内包する芸術について、本当に考えていれば、こういう議論にはある程度ビビッドに反応してしまうものだと思う。


世界がマチスの絵画のようにあり得ること。そのようなモチーフは芸術家にとって「無関係」でもなければ「黙っていなければいけないこと」でもない。もちろんそれはここで展開されている議論の無批判な受容をせよ、ということではない。むしろ可能であるならば(その能力があるならば)徹底的に批判したっていい。ただ、まずいのは、それが「面倒臭い」と思ってしまうだけなら仕方が無い事にせよ(芸術それ自体について思考する事の方が面白い、というのは当然であるにせよ)、こういうことに芸術家が興味をもち、積極的に考えようとする動きを抑圧するような空気を醸成し強化してしまうことだ(ここでの議論が排除しているものについて考えるとか、角度はいろいろあり得る筈)。