POLA MUSEUM ANNEX、という施設が銀座にできて、先日まで「美術を変えた9人の画家」展と題してポーラ美術館の所蔵作品を展示していた。モネ、ルノワールセザンヌシニャックゴッホシャガール、フジタ、ブラック、ピカソといったラインナップだった。


会場で明らかに他を圧倒して異常だったセザンヌインパクトありすぎだった。セザンヌを「普通の名画」として見ることはできない。「砂糖壺、梨とテーブルクロス」がある壁面だけ空間がかるく歪んでいるような感じで、特異点というかブラックホールによって光が曲がってみえる見たいな、変な事になっていた。例えば、私が過去に書いた同じポーラ美術館の「プロヴァンスの風景」であれば(参考:id:eyck:20050502)、その空間の狂い方のピッチはタッチレベルでとても細かく、そのせいでぱっと見というか、やや感が働かなくなっている人(単純な観光ついでに来た人とか)ならばふっとセザンヌの特質に気づかずに済んでしまう可能性はなくもないと思うけど、「砂糖壺、梨とテーブルクロス」の場合、もう誰が見ても一目で「おかしいだろ、これ」と思わざるをえないような構造を持っていて、しかも十分緊密だ。気楽に「良い絵」を見に来たような人なら軽く引くのではないか。


あの感覚は、図版を見ていてもある程度は感じられるのだけれど、やはり現場でのほうがずっと強力だった気がする。あるいは、あの現場での違和感を繰り返し頭の中で想起している中で、時間が経ってから“効いて”きてるのかもしれない(だから今改めて見たらきっと別の感覚を受けるのだろう)。「砂糖壺、梨とテーブルクロス」は、セザンヌの作品として特別に目立つ存在ではないのかもしれないが、しかしこの“効いて”来る感じは私には初めての事で、一体いまさらどういう事なのか。シニャックとか、色彩は過剰にビビッドで少々ハレーションを起しそうなピンク+緑の取り合わせも含めて新鮮な感じもあったのだけれど、とにかく他の8人の作品は、ごく当然に壁にかかっていて、とりあえずは「絵画」として受け止められる(ピカソだけちょっと違った)。平滑な壁面空間にきちんと沿い、平らな面がぐるっと会場をくるむ中で、セザンヌのあるところだけ鉄球を投げつけて凹まされてるというか後ろからボコッと何かが飛び出してきそうというか、そういう有り様だった。


こういう絵を描く人が、歴史上の最高のマイスターとして遇されている美術史ってなんなのだろう。美術史、という連続性を虚構する物語(ゴンブリッチ)において、絶対セザンヌはその「流れ」とかけ離れてある筈で、一つ間違えば「アウトサイダーアート」じゃないか、とすら思う。実際、ゴンブリッチセザンヌについては明らかに過剰に反応している。セザンヌが美術史上最高のマイスターだとするなら、私は美術史という概念を変更しなければならない。つまり流れではなく断絶の絶え間ない瞬きであり、継承ではなく飛躍と跳躍の散乱であり、学習というよりはその放擲なのだ。例えば、近代以降の絵画は「平面」を目指した、という言い方がある。この言い方はかなり単純な言い方で、少なくともそれは「絵画平面」を目指した、くらいの言い方をしなければ成り立たない。そして、セザンヌに対してならばもはや間違いなのだ。「平ら」ではなく、むしろボコボコの画面を、画面の端から端までが繋がらずに不連続にあるように組織すること。しかも一枚の布がくしゃくしゃになるように、というよりは布やガラス、様々な異なる素材の破片が散らばるように。


こんな事は今改めて言うような事ではないし、さんざん語られてきた事でもある。私自身把握していたと思うのだけれど、今回はなんというか、その感覚が改めて口からぐっと飲込まされてきたというか、押し込まれてしまったのかもしれない。あるいは、私の中で何かが準備されているのかもしれない-と書いたのは間違いで、きっとセザンヌによって強制的に何かがインストールされてしまったのかもしれない。体中でウイスルチェッカーがアラートを鳴らしているというか、白血球が激増して免疫系が活性化しているというか。ポーラ美術館は2005年に訪れていて、その近代西洋絵画のコレクションの充実に驚いた。僅かな点数とはいえ、一部が銀座で無料で見る事ができたのは嬉しい。印象派以降の近代絵画のコレクションでは、一般に上野の国立西洋美術館の名前が上がるかもしれないが、粒の揃い方という意味ではブリヂストン美術館の方が私には思い浮かぶ。それに次いでよいコレクションを持っているな、と感じているのがポーラ美術館で、箱根の新緑に浮かんでいた建物も含めて良い思い出だった(ただし、現代日本画のパートにきて随分緊張感が薄れてしまうのだけど)。


しかし、私はあの時、多分重大な見落としをしたのだ。というより、人が作品と「出会う」って、こんなにも迂遠で時間が必要であり、難しいことなのだ(この文章を書くこと自体時間を要している。書くのに時間がかかったのではなく、書き始めるのに時間がかかった)。展覧会は25日に終わっている。