東京都現代美術館で「MOTコレクション 特集展示・岡崎乾二郎展」。単に良い作品を見た、というだけではない。良いというなら、先に久しぶりに再開された根津美術館の「那智瀧図」の公開だってあったのだし、もちろん東京国立博物館での伊藤若冲や永徳の展示だってあった。しかし、同時代の、同じ環境の下で、これだけの作品が作られているという事実は、古典を見るときとは異なったインパクトを周囲に与える。岡崎乾二郎は、けして「世界的に大活躍」している作家ではない。無論評価はあるだろうし、実際海外での仕事もある人だけれども、それでもその仕事の達成に対して十全な評価を受けているとは言えない。率直にいえば、岡崎乾二郎という人はアートワールドにおいて明らかにマイナーな作家だ。そして、作品を作る、という事の喜びと高みは、そんな事と切り離されて展開しうる。市場がどうだとか、オリエンタリズムがどうとか、日本の近代の貧しさがどうとか、そういう事を踏み越えてこれだけの作品が作られ得る。文脈/歴史が無関係だということではない。その文脈/歴史からジャンプし得る可能性がこうして生きられている事に、少なくとも作家は震撼するしかない。


岡崎乾二郎の作品は、ラフでありながら複雑だ。そして、その複雑さに根拠はない。例えば会場中でさりげなく展示されている建築模型の構成比と、展示会場のそれが同一であることが示されているとして、ではリファレンス元の建築模型の構成比の根拠はどこにあるのか。それを辿る事は可能かもしれないが、その遡行は何処まで行っても何にも基礎づけられない。コルビジェのリファレンス元がパラディオにあったとして、ではパラディオの「根拠」は何か。更に「根拠」の「根拠」は?そのような引用の連鎖は人をどこにも連れて行かない。いわば「適当」でないことのアリバイにしかならない。それでいて、人はそのような「歴史」の上にいること、その条件からは逃れられないのだ。ここに奇妙なパラドックスが生じている。文脈/歴史から逃れられない、まさにその事を十全に飲込まなければ人は文脈/歴史からジャンプできない。岡崎乾二郎の根拠無き複雑性は、そのジャンプを可能にするためだけに要請されている。このことは、section B最初の2枚組の絵画と、二枚のパーティションを隔てて相対された2008年の3枚組の作品にも明瞭に示されている。なぜ組みなのか?組みであることによってしか、その複雑性は示せないからだ。つまり組みであることの根拠は組みであることそのものにしかない。


3枚組の作品に黄金比が引かれているのは、岡崎乾二郎の根拠無き複雑性の端的な症例になる。黄金比に最終的な根拠はない。単にそこに膨大な「症例」があるに過ぎない。そしてそのことに岡崎は十分意識的だろう。黄金比だから美しいのではない。そのようなねつ造された「美」を踏み台にすることによってしか獲得できない質というのが存在するのだ。端的に言えば、岡崎の作品、ことに(カッコつきの)「絵画」作品には、実は積極的なものが前面に出てはいない。常に〜でもなくまた〜でもない「絵画」。そのような狭間に、一種の残像のように現れるのが岡崎の作品だ。私は今、(カッコつきの)「絵画」と言ったが、もちろん、あの木枠に画布が張られアクリル樹脂が付着したモノは「絵画」からはっきりと溢れ出ている。小品の脇に、あるいは大型作品の背後に足された木枠は明らかに台座だし、画布の平面上から盛り上がり側面にはみ出した樹脂は「絵の具の色彩」という形而上の物ではなく、文字通りの樹脂そのものだ。一見フォーマルに「絵画」の形式に沿いながら、その内部において「絵画」から溢れているモノ。彫刻でもなく絵画でもない何事か。つまりそれは事件としか言いようがないのだ。


そういう意味では、上記のようなぎりぎりの場所からでない立体作品に、岡崎の最も伸びやかな資質を見る事ができる。section Dのゲント現代美術館のインスタレーションの再現に見られる2点の立体作品(岡崎において、「絵画」とは異なり立体作品には基本的にかっこが必要ない)の軽快さは、ドローイングとの照応関係を含めて(カッコつきの)「絵画」とはまったく隔絶した健康さを獲得している。もしかして後世の評価において岡崎はその出自である彫刻家として認知されるのではないか?ミケランジェロが建築家でも画家でもなく彫刻家として認知されたように。今回の2点の立体は、明らかに同じ常設会場入口付近に、ひっそりと隠されるようにあったアンソニー・カロの彫刻と呼応している-というか、マイケル・フリードによるカロを越えているではないか、という応答になっている。ルネサンスの作品を多く扱った「経験の条件」という書物、あるいはセザンヌマチスに対する鋭利な発言の背後に、アメリカ美術への強い意識が岡崎乾二郎というパーソナリティに刻印されていることは過去に述べたが(参考:id:eyck:20040501)、このことは今回の立体作品の展示において改めて確認された。これも過去数回述べて来た宇佐美圭司 との関係も押えていていいだろうが(参考:id:eyck:20070509及びid:eyck:20071129)もちろん、それは根拠なき複雑性と同じく、切断されるために要請された関係性であることは前提だ。


2期あるうちの前半だけを見てこれだけの事を言うのは拙速だろうが、しかし今国内で行われる展示として「岡崎乾二郎展」は見ないわけにはいかない緊急性を持っている。これだけの作家の展示が企画ではなく常設の1部分としてあることは、この場合過剰に悲観すべきではない。華やかなショーのようなレベッカ・ホルン展の隙間、その条件ですら、岡崎の作品はポジティブに見せる。たとえば抽象表現主義の部屋とポップアートの部屋の間に今回の展示が置かれているのはもちろん美術館の正確な岡崎理解による。つまり、ここでも「抽象表現主義でもなければポップアートでもない」、反-歴史的(と言っていいのか)な場所を開示しているのが岡崎乾二郎なのだ。いわばハイ-ポップ(あるいはポップ-ハイ)ともいうべき有り様を示しているのが岡崎の作品群で、それはもはや美術の領域を越えた批評性を獲得している。世界が今後、単なる資本の一方向機械ではなく、同時に反動的後退もせずにその精神において生き残るならば、そのビジョンはこの展覧会にこそ示されている。


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