東京都現代美術館レベッカ・ホルン展で見られたオブジェクトはどれも「軽い」。逆さに宙に浮いたピアノ。細い金属機器に取付けられた鉛筆、ナイフ、男根、鴉の羽、楽譜その他。高所に設置されたペインティング機械。浮遊する光の文字。反重力的な、風船のような(イタロ・カルヴィーノ的?)「軽さ」は、それぞれの作品が内包する主題と相反する。性、死、暴力、愛情その他といった、いわゆる「現代美術」といわれるシーンで繰り返し語られて来た「重い」概念をあっさりと包み込み、地上から引き離して飛ばしてみせる。そしてその手際が、なまじっかな商業デザイナーの仕事より遥かに洗練されているのだ。グラフィカルに処理された主題は、その有り様に少し違う角度から光が当てられている。


実際、そこに何か新しい要素があるかと言えば、そんなものは皆無だと思う。むしろ扱うモチーフとしては、レベッカ・ホルンは保守的と言ってもいいくらい伝統的なものばかり扱っている。むしろ、新しいものがまったくない「現代美術」が、このように新鮮なビジュアルとして展開されうる、ということそのものにびっくりする。21世紀の現在に、シュールレアリスムの方程式へ次々とジェンダー、コミュニケーション、身体、歴史といった変数が挿入され作品が産出されている。アートのリパッケージあるいはリデザイン。そして、それを成立させている変換ツールこそが「軽さ」なのだ。例えば「無意識」が「深層」にあるという紋切り型は、それこそ自動機械のようにそのような「深層-意識」を「下」に、重くイメージさせる。だが、レベッカ・ホルンはそれを反転させる。彼女にとって「深層-意識」は軽く、上方に、宙を舞う羽や雲のように天空にあるもので、人はそこからダウンロードされた存在に過ぎない。ここでは作品が軽いのではなく人が重すぎるのかもしれない。


レベッカ・ホルンが扱うメディウムとしては「軽さ」の他に「時間」がある。「待たせる」でも良いし、「止める」と言った方がいいかもしれない。今回展示された作品はその多くが可動するが、それは常時ある状態を反復し続けるというよりは、そのような反復のどこかに結節点となる「印」を挟み込む。ここでは観客の意識が問題になる。観客は、その多くの場合作品の生み出す「印」を待ち、その間身体と判断を止める。実際に止まらなくても、少なくともその姿勢に空白を準備する。そして、特定の仕掛けによって空白に「印」が打ち込まれる(蝶の羽が開く、銃の発射音がする、ピアノの鍵盤が引き込まれる)時、観客はいわばレベッカ・ホルンにマーキングされる。その瞬間に、自らの持つ「重さ」、それは物理的な身体の重さだけでなく、意識の重さでもあるのだが、それがふっと解除され、空に飛んで行ってしまったかのような触感を得るのだ。日本で写真撮影が始められた初期に「魂が抜かれる」といった噂があったという話があるが、レベッカ・ホルンの刻む「印」は、そのような魂抜けの装置として機能する。


さらに言えば他のメディウムとして「距離」があるかもしれない。二つの向かい合った、金属機器に取付けられた羽は、微妙な距離を持って向かい合う。そして、それは作品と向かい合う観客の距離と二重写しになる。そこではごく微妙な距離によって喚起される誘惑が作動する。特徴的なのは細い棒で人の目の高さに固定された双眼鏡がある。これを覗き込みたい、という誘惑にかられない観客は想定しにくいだろう。しかし、細い棒で不安定に設置された双眼鏡は触れれば倒れてしまうのではないかという不安感も煽る。このような構造は多くの作品で利用されている。触れたくなるような質感と形態が、しかし触れられない。この誘惑と禁止のパフォーマンスはもちろんセクシャルなものなのだが、このセクシャリティが繊細に、持続的に連続することによって奇妙な性的高原状態に人を導く。今回の展覧会に、「古典的現代美術」の見事な再利用といった側面以上のものがあったとするなら、この不思議な、浮遊する性的高原状態であって、こんな感覚はちょっと他では経験がない。


映像作品は意外なくらい不器用な物で、もしかしたらレベッカ・ホルン個人のオブセッションはこちらの方にこそ強く刻印されているのかもしれないが、いかんせん全てを見るには忍耐力が要求されるだろう(自分は半分も見ないで諦めた)。最後まで興味深く見る事ができたのは彼女の展覧会ツアーの記録ドキュメンタリーで、1作家としてのレベッカ・ホルンは、ごくナイーブな作家なのかもしれないとおもわせた。華やかなオープニングレセプションで、観客の反応が怖い、閉じこもらなければならないとナレーションする本人は、この展覧会のような見事なショーアップとイメージが重ならない。


レベッカ・ホルン