ハイデッガーを読んでいる時に「組立」が進行し始めて、ちょっと勉強してることをメールで(得意げに)書いたら突っ込まれて、やはりデリダドゥルーズ読まなきゃダメなのかと思って、とりあえず「構造と力」を読んだら、その後なぜか新潮文庫の「ソークラテースの弁明」を読み始めてしまい、続けて収録されている「クリトーン・パイドーン」もあっという間に読んでしまって、そのあまりの面白さにあっけにとられて、続けて岩波で「パイドロス」を読み、そういえば昔「饗宴」くらいは読んでいたなと思い出して本棚を探ったら出て来て、これも読んだ。以下続行中。これってどうなんだろう。ハイデッガーじゃダメだ、と反省しなければいけないところでギリシャ哲学って。反動的にすぎないだろうか。私だって相応に時代の子なのだから、もう少しアップ・トゥ・デートなものを読むべきではないのか。少なくとも、フーコーとか、そういうあたりをせめておくべきではないのか。


とは言え、そもそも私は「勉強」ができない。つまり所与の目的目指して体系的に本を読むことができない。だから読んだことが身に付いていない。そのときの読書の楽しみに流されてそれで終わりだ。こういう事を書く人は実は大抵自慢として書くもので、自分はつまらない優等生じゃないぞと言いたいだけなものだけれど、私もいい年になってそういう見栄はなくなった。「勉強ができない」というのは身もふたもなく「恥ずかしい」ことで、それは箸が使えないとか(私は実際箸が使えない)大人のくせに免許が無いとか(私は実際免許が無い)まともに泳げないとか(私は以下略)そういう事と同じ水準で恥ずかしい。若い時無知でバカなのはまったく恥ずかしいことではないが、40歳で無知でバカなのは救い難いし、やっぱり、単に、恥ずかしい。


だから、努力をしなければならない。このこと自体が恥ずかしいのだが、実際ここまで怠惰に過ごしてきたのだから恥を忍んで努力をしなければならない。そう思って、今更ながらハイデッガーフッサールだ言ってきたのだけれど、やはり「楽しい」には流されてしまう(西尾維新だって「楽しい」)。私は「楽しい」という感覚の限界も退屈さもある程度感じているのだけど(そう、「楽しい」は結構退屈な感覚なのだ)、それでも「楽しい」はそこそこ強い。プラトンを読み始めて思うのは「楽しさ」という観点ではもう圧倒的に初期のものの方が優れているということだ。それは「ソークラテースの弁明」と「饗宴」を読み比べればはっきりすることで、もちろん「饗宴」はプラトンのその次期の著作の中では相当程度に楽しいものだと思うけど、やっぱりどうしてもその「楽しさ」がストレートではない。相応に技巧があり、構成があり、論理構築がある。つまり立派に哲学書になっている。対して「ソークラテースの弁明」は本当に「まっすぐ」な力に満ちあふれている。


私はこの本をソクラテスの言葉に近いと思うほど素朴ではないが、やはりこの本には、一人の若い青年が、他人の思索を「外部」としてどかんと受け止めてしまったショックに貫かれていると思う。ハンマーで打ち抜かれた衝撃がそのまま一気に最初から最後まで行き渡っていて、踊るように読めてしまうのだ。いちばん「ソークラテースの弁明」と「饗宴」の差として現れているのは笑いだと思う。どちらの本も「楽しい」本だから読み進めていてなんども笑ってしまうのだけれど、「饗宴」の笑いはかなりな程度狙われているし作られている。それだけ高度で抽象的だとも言えるが、自分でにやにやしながら思うのは、そのにやにやの枠組みがどこか透けて見える。


「ソークラテースの弁明」で笑えてしまうのは、もう本当に掛け値なしでマジな笑いで、それは「ソークラテースの弁明」の文章自体がまったくユーモアなんて考えてもおらず、伝えたいことを、なかなか伝わらない他人に対し伝えようとする語り手(それはプラトンでもありソクラテスでもある)の必死さだけが露出している。そして、必死な人の姿というのは、やはりどこか笑ってしまう(正確にはその必死さを受け止めるには笑う意外の対応がわからない)。多分、ソクラテスの法廷にいた多くのアテネ市民も、私に似た笑いを笑っていたのではなかったか。この余韻はパイドーンとかにも流れている。それが、徐々に精緻にプラトンに考え抜かれた「哲学」になっていく。


流石に古典すぎて、製作とかの検討の中で「使える」という感覚はプラトンにはない。ハイデッガーとかは十分に直接的に今考えていることに対して有効だったしインスピレーションも湧くのだけれど、そういう直接性はプラトンにはない。また、そもそもソクラテス-プラトンにそういう事を要求するのも間違っていると思う。マテリアルの軽視とか、美術家として断然否定したくもなる。それでも、なまじっかなポスト構造主義とかよりもずっと力動を感じるのがソクラテス-プラトンで、この「楽しさ」はもう少し追いたい。身に付かないだろうけど。

ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫)