人は「強い」ものに弱い。そこに「強い」ものがあれば、なんらかの反応を示さずにはいられない(その「強さ」は自分への働きかけの「強さ」だから、反作用を起さずにはいられない)。そして、往々にして、「強さ」をすぐさまに肯定してしまう。それは、例えば、一見否定的な態度であっても結果的な効果として肯定でしかない否定になってしまう-この「強さ」は認められないが、少なくとも「認めない」という言明をするには値する、というような形で。


「強さ」は「大きさ」とは異なる。「大きさ」は「小ささ」を含んでいるから、「大きさ」と「小ささ」は同一線上で比較が可能だ。対して、「強さ」は、けっして「弱さ」を含まない。骨折したときの痛みの「強さ」は、紙で指先を斬った痛みの「弱さ」を含まない。骨折した痛みと、指先を斬った痛みを同一線上で比較することはできない。それは、そもそもベクトルの異なるものなのであって、骨折の痛みの方が紙で指先を斬った痛みよりも重大である、と言うことはできない。


ここで一つのヒントが現れる。要するに「強さ」「弱さ」に価値判断を比例させることが錯誤の元なのだ。強いものが「重要である」とは限らない。弱いものが「どうでもよい」ものとは限らない。だから、冒頭の命題はこう言い換えられる。人は「強い」ものを重要だと判断しやすい。だがそうとは限らない。この言い方は、けして「強い」ものに対する否定を含まない。「強い」ものは重要に見えるけどたいしたことないよ、と言いたいのではない。むしろ、「強い」ものが、その「強さ」故にその内実としてもっている様々な多様性、微細で繊細な、こういってよければ可能性の総体を「強さ」だけに還元されてしまった結果汲み取られずに終わってしまう、それこそが問題なのだ。


中西夏之の絵画には、そのような問題が多く含まれていると思われる。中西の最良の絵画作品には、その視覚的効果の「強さ」にけして回収しきれない側面が豊富にある。中西の絵画を見たとき、多くの人がその色彩(ことに緑)の生々しい扱いにインパクトを受けるだろう。また、まるでホチキスの針のように打ち込まれた×印と、わずかにずれて付けられたグレーの「影」をイメージさせるタッチから、一種のトリックアートのような印象、平滑なキャンバスからイメージが分離し浮かび上がったような効果が記憶に残り易い。しかし、このような、一見通俗的なビジュアルエフェクトに隠されて、中西の絵画の中核には、むしろ壊れ易い、あるいは暗闇で模索するような一種の盲目性がある。


中西が絵画で試みていたのは、簡単に言えば絵画の「平らさ」を疑問に付し再検討することだと要約しうるだろう。この「平らさ」とは必ずしも絵画の平面性の価値への攻撃だけとは限らない(つまり反モダニズムという分かり易い動機だけではない)。そもそも、絵を描くとはどういうことなのか、その前提となる「画面」とはどういう成り立ちをしているのか、という問いから開始された仕事だと思える。単に反モダニズム、というならば、キャンバスにクリップを挟み込むパフォーマティブな仕事「1963年読売アンデパンダン展《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》」で十分に達成されているからだ。それが実際にキャンバスに筆で絵の具を塗布する、という言わば反動的な動きは、ごく内的な、即ち中西が美術へと眼差しを向けたその原初的なエネルギーにしか原因がない(そういった意味で、原理的に中西の絵画は「反動」している-それは「反復」とも言い換えられる)。


目の見える-絵の描ける中西は絵画を簡単には破壊できない。目が見えてしまう/絵画が描けてしまう、まさにその能力こそが絵画の始原へと遡行するときに無能力性として立ち上がってしまう。つまり画家は描ける-見えるが故に盲目なのだ。中西の絵画の「視覚効果」はこのような観点からしか理解できない。そして、その「視覚効果」しか見ないならば、それはほとんど中西の絵画を“盲目性において見る”ことを放棄するに等しい。中西がそこで行っていたのは、十分に覚醒しながら夢を見ることであり、物理的にではなく「理念的知覚」、現象のレベルで絵を描くという事の再定義に近い。


私はここで世間での中西受容に反論しているのではない。重要なのは中西自身による「中西受容」が、ある時点から自作の「強さ」、それは中西が「絵が描ける」ことの盲目性から不可避的に要請されたぎりぎりの立場にちがいないのだが、それに引きずられ、あるいは誤読して、単なる画面操作の技術にしかならなくなったのではないかと思えるのだ。そこでは「強さ」の影に様々に埋め込まれた揺れやためらい、絵画の「たいらさ」が見えてしまうことへのいらだちが泡のように吹き出ていた独特な曖昧さが消え、明晰なエフェクトがバランスよく配されている。このような事態こと「保守化」というべきであって、中西絵画の、とくに初期のものは中西において最も過激な部分と言えるだろう(このエントリは最初「強さ」「弱さ」についての抽象的な内容になる筈だったのが、例題として出した中西夏之にいつのまにかジャックされてしまった)。