自分の文章が気に入らなくなっています。思い当たる時期はあるのですが、このblogのエントリは一種の「やわらかさ」のようなものを失ったのだと思います。失った、という言い方は良くない、捨てた、と言う方が正しいのかもしれないのですが、しかしやはり「捨てよう」と思って捨てたのではなく、その時はきっと「やわらかさ」よりも大事なものを掴もうとしていたのだろうと、あやふやになった記憶を辿っています。いずれにせよ、それは誰かに何かを言われたとか、そういう自分の外側の事情によるのではなくて、自分自身で選択し決めた事柄です。後悔しているのか、と言われれば、だから、多分後悔はしていない。ただ、そのような自分のやり方が、少し自分にとって窮屈でどこか違和感の残るものになっていった、そういう事だと思います。


話は簡単です。自分で決めたことなのだから、それが嫌になったのなら、改めて自分で何事かを決めればいいだけなのです。なんの制約のない、誰にはばかることもないblogの文章なのですから、変えたいことは変えればいい。しかし、同時に、自分で決めて自分で行ってきたからこそ、変化させるのが難しい、という事もあるような気もします。ことに、ある程度長くやってきて、知らず知らずに自分の中に積み上げてきたものがある場合に、こういった難しさは発生しやすいのかもしれません。いろんな言い方や理由も言えるかなと思いますが、一番大きな障壁は「面倒くさい」ということではないかと推測しています。


面倒くさい。これは強力です。ありとあらゆる論理、状況、全てを吹き飛ばす破壊力を持っています。分かりにくいから変えるべきだ→面倒くさい。単純すぎるから考えるべきだ→面倒くさい。文体がなっていない→面倒くさい。社会正義に反する→面倒くさい。主体の自律という近代的幻想に基づく制度の内部からの検証と分析を通じたエクリチュール の解体はテン年代即物的工学主義に抗するため最も緊急かつ重要な課題であり→面倒くさい。おおよそ、誰かが何か渋い顔をしながら、変化に対する留保を付け始めた時は、その留保をまじめに受け取るより先に「この人面倒くさいのではないだろうか」と疑うことは、結構な確率で合理的です。


成人を20年もやっていると、世の様々な理屈や制度や方法やルールは、この「面倒くさい」を基盤に据えているのだという身もふたもない事実に行き当たります(逆に言うと、この「面倒くさい」を上手く回避してあげられるような提案をすると、とてもスムーズに物事が運びます。ただし「面倒くさいんですね」とは絶対に口にしてはいけません。相手の「理屈」を表面上はそのまま鸚鵡返ししながら相手の面倒を解除してあげることがコツです)。そして、これは誰に対する揶揄でもなく自分に対する正直な告白です。率直に言えば、私は人生の90%(いいかげんな数字です。精密な言葉を書くのが面倒くさいので)を「面倒くさい」で処置してきています。


そういった事は良くない。少なくとも真摯に芸術を考える人間の態度として間違っている。新たなるディケイドが開始された今こそそのような惰性と怠慢を放擲しチェンジするのにふさわしい。というようなことが暗に伝わるようなエントリを書いて軽く軌道修正をしようかと第一段落を書いた所まで考えていましたが面倒くさい面倒くさいと何度も繰り返し書いているうちに本当に面倒くさくなってきてしまったのでそんな事するわけがない。面倒くさい。そういえばお酒を止めようかと年末に思っていたのに気づけば冷蔵庫に黒角が一本入っていて残り僅かなのも我慢をするのが面倒くさいからだし年賀状を配偶者に一任して2年連続の喪中が終わってついに作ってしまった子供の写真入り年賀状に文句をつけることもなく「いいんじゃない?」とあっさり言っているのも面倒くさいからだし年内に削除される筈だった旧アカウントのwebサイトが平然と残っており旧アドレスからの転送メールが未だに来てしまうことを問い合わせたりしないのも面倒くさいからでだんだんこのエントリに落ちをつけようかどうしようか考えるのも面倒になってきた。


今確認したら旧アカウントが削除されていた。エントリを修正するのが面倒くさいので追記。