東京都美術館ボルゲーゼ美術館展。今時この手の「●●美術館展」に過大な期待をする事の方がバカなのだし、佳品が数点来ていれば御の字であることは了解済なのだし、そういう意味では会期早々の日曜日に拍子抜けするくらい観客が少なかったのは日本の観客の反応として相応に納得のいく状況だったのだし、もちろん良いコンディションで見る事ができたのは歓迎すべきことで、だからじっくり会場を見た上でいくつかの作品に関してはいくら貸してくれると言ったって借り手の見識として「いやこれはいらない」と言うべき物なのではないかと思ったりしつつ、わざわざそれを人前で言う必要などないのだけれども、しかしついついこうやってblog上でエントリを書いてしまうということは、私はこの展覧会をけっこう心待ちにしていたのだという事を暴露してしまっているようなもので、例えばいくつかの作品の質の低さのせいで、ギルランダイオという傑出した個人の名前が必ずしも十分に知られていないこの国の観客に、悪印象を持って記憶されてしまう危険性にハラハラしながら、少なくともキャプションに「あの」ドメニコ・ギルランダイオとは別人である旨注釈してくれてもいいんじゃないかなという余計なお世話もついつい書き付けておきたくもなるのだけれども、どっちにしろこの展覧会の入場料が一般1400円であるのはなんとなく高すぎるんじゃないかなと感じてしまったのは正直な話で、これがあと200円安かったらこんな某映画評論家まがいの長い長い段落の文章をアップロードしてしまう愚は避けられた筈で、あの文体というのは嫌みを言うのにとことん最適化されていたのだなと改めて了解できたわけだけれども、同時にまた別の人が「貧乏人は真似するな」と警告していたことも思い出せたわけで、空前の円高なのに輸入美術館展がちっとも充実しない不思議について誰か説明して欲しいという希望だけつぶやいておく。


というわけでいきなり序盤にベルニーニによるボルゲーゼ枢機卿の肖像彫刻があって「へー」と思いつつ通りすぎかねないのだけれども(ベルニーニって個人的にそういう扱いなのだ)、B級C級の作品をさんざん見た後では改めて引き返してしまうくらいの出品作なのは確かだ。そのボリュームある胸部を、少し下から見てみると実はごく薄い大理石で表面だけ作られていることに気づいて、まぁ考えてみれば肖像彫刻の有り様として普通は普通なのかもしれないけれども、像をとりまく空間が豊かに組織されているイリュージョンからは、意外な驚きを感じてしまう。ベルニーニってやっぱり「表面」に対する極端な(フェティッシュな)感覚をもっている作家で、ミケランジェロと比べても奇異だと思う(ミケランジェロの仕上げへの冷淡さこそが特殊なのかもしれないが)。こういう作品がイタリアから空輸されてきていることを思えば、やはり現地に行かずに見る事ができるのは有り難いというべきなのだろうか。実際、この手の宮殿美術館は玉石混合の作品群が所狭しと展示されているもので、質の密度は数のそれに比べてやはり低い印象になるだろう(それにしてもボルゲーゼ美術館展と題されながらいくつかの「あの所蔵品」が来ていないことに落胆はするけれど)。


ロベルト・ロンギによって元の帰属が疑問視され、後の加筆が洗浄されてラファエロ作とされた「一角獣を抱く貴婦人」は流石に良い作品だ。レオナルドのモナ・リザが世界の複雑さを極端に平面に圧縮した結果、過剰な情報量がオーバーフローして茫洋とした「情報の溢れ」で充満しているのに対し、「一角獣を抱く貴婦人」は明快な空間と幾何学的な人体の形態把握を見せている。レオナルドを意識して描かれたかどうかという事実関係はともかく、結果としてこの作品はモナ・リザあるいはレオナルドへの批評・批判として機能していることは確かだ。絵画は絵画というメディウムに即して展開する、そこに「世界の再創造」のようなことを企てたりはしない、という近代的態度がこの作品にはある。エッジの切れの鋭さが最もレオナルドと対照的で、一時期ペルジーノ作とされていたらしいことは十分納得がいくが、ごく即物的でリアリスティックな描写、鮮やかな色彩などもモナ・リザにことごとく「反抗的」(「神秘的」な表情と放棄された色彩との対比)だ。ペルジーノの弟子として初期に師にそっくりなエッジを獲得していたラファエロが描き手とされたことは事後的には当然にも思えるけれども、しかしそれは作品の「質」という観点から見れば意外な難しさだって持っている。ロンギの目は、年代考証なども踏まえた上で、その前に作品のもつ力のようなものを直視する人なんだと思える。


カラヴァッジョ「洗礼者ヨハネ」は、私にとって最高のカラヴァッジョとは言えない。視覚的に弱い、と思えるのは画面前面への「突き出し」で、例えばバチカン美術館「キリスト降架」(参考:id:eyck:20060309)であれば、画面下部の台座が観客の方へ(つまり画面の表面から「こちら」へ)異常に突出している。「洗礼者ヨハネ」でそのような機能をもつとすれば左手で、実際この手はある程度こちらへ出て来ているのだけれど、それが今ひとつ画面構造と深くリンクせず切り離されているように見えるのだ(そこが面白いところかもしれないけれど)。やや近い感覚を覚えるのはピッティ宮の「眠るクピド」で、子供の死体を描いたと噂される感覚がどこかこの「洗礼者ヨハネ」に見えるのは、その絵肌に見られる筆の動きの静かさによるかもしれない。カラヴァッジョの筆の動きはおおよそ常に「遅い」のだけれど(すごく「早い」のはルーベンス)、この「洗礼者ヨハネ」の筆致もかなりの程度遅い。少年像ということで線が細いせいもあるかもしれない。ボルゲーゼ美術館には「病める少年バッコス」、「執筆する聖ヒエロニムス」、「果物籠を持つ少年」などのカラヴァッジョがあり、来日したのが「洗礼者ヨハネ」1点というのは少し寂しい。


ボッティチェリのトンド「聖母子、洗礼者ヨハネと天使」はあまり良い作品ではない。画面構成にボッティチェリらしい一種の「狂い」は感じられるが、描写に密度がない。もちろん「誹謗」のように、空間が狂っていて密度がなくてなおかつ面白い作品というのがボッティチェリにはあるのだけれど、なんというか「聖母子、洗礼者ヨハネと天使」はいろんな意味で中途半端だ(「誹謗」の空虚さには十分な根拠が在る。参考:id:eyck:20060126)。ウフィッツィの「聖母の戴冠」のような凄みがない感じがある。余談だけど昨年の損保ジャパン美術館での丸紅コレクション展に出ていた「美しきシモネッタ」を見逃したのは痛かった。また公開される時はあるのだろうか。あとの作品はあまりピンと来ない。