私は「本」というメディアにフェティッシュな固着がない。そういう人間はアーティストブックという言葉にも概してロマンを持たないものだと思うけど、昨日で終わったうらわ美術館の『オブジェの方へ−変貌する「本」の世界−』は面白い展示で、趣味的になりがちなテーマでありながら、そのような「狭さ」に収まらないものがいくつかあった。


イー・ジヒョンの、聖書を針でほぐした作品は一番良かった。ここでは「本」へのフェチズムを越えた所にまで手が届いている。丹念な手作業が聖書という様々な文脈や意味を背負ったものの容貌を変化させ、異なる位相に産まれ直させている。ここで作品の核を形成しているのは観念にくるまれた物質の変換作業であり、「本」はあくまで素材でしかない。勿論それが聖書であることは作品の契機として重要だったと思うのだけれど、しかし膨大であろう手作業とそこに懸けられた時間の集積は、本1冊の持つ時間の集積に十分拮抗している。アーティストブックという作品形式にたまに見られる安易さは、本という形式の持つ歴史的な積み重ねや、現実的な情報量の力(幻想を生み出す力)に依存することがあるために発生すると思うけれど、イー・ジヒョンの作品にはそのような甘えが無い(フォンタナのアーティストブックは、そういう意味ですごく安直だと思う。単なる商品でしかない。)。


西村陽平の本を窯で焼成したものは美しい。この人が目が不自由な陶芸家であることは後から知ったのだけれど、単なるクラフトの域からは明らかにはみ出している。焼かれた本はほとんど火葬場で拾われる骨のメタファーとして完璧で、だから「本」というものが単なる情報媒体ではない、体を投影されるオブジェクトであることがわかる。人にとってはそれは重量と質量を持った肉体であり、別の人からみればそれは情報と知のネットワークだ。つまり「身体」派と「脳」派にアーティストブックは大きく分けられる気がする。例えば遠藤利克は「身体」派だろうしジョージ・マチューナスは「脳」派だろう。もちろん個々の作家がそういう意識で製作していた、ということではなくて、アーティストブックという特殊な、しかし一定の好事家がいる分野では、そのような幻想がベースにあるということだと思う。


「本」があるフェティッシュの対象になってゆく感覚は想像はできる。中村宏による金属の本はそのようなフェティッシュの非常に分かり易い例で、こういうのが好きな人にはたまらないだろう。私がぱっと連想が働いたのが松本零士で、そう思ってみれば中村宏というひとの想像力にはとてもキッチュでマンガ的なものが濃厚であることに気づいた。また、加納光於大岡信によるボックスアートは趣味性が端的に出たもので、見ていてつくづく意識が閉塞する。ボックスアート系(系、とか簡単にいっちゃうけど)という方向性はどうにもキッチュにしか成り得ない。私が唯一知る例外はレベッカ・ホルン展でみた、透明な箱に稀に羽を開く蝶が入ったボックスアートで、あれは透明で密度のない中に動く機構が組み込まれているからで、それだけの仕掛けで「開く」ことができる。加納光於の仕事は悪い意味で「閉じて」いる。


そういうアーティストブックという重力圏から明らかに切れているのがマルセル・デュシャンであることは、ありがちすぎて退屈だけど事実なのだからしょうがない。ジョージ・マチューナスやフルクサスでさえ、デュシャンと並べてみると「趣味的」だと思う。ただ、それが加納光於のように閉じていないのは、ある種とてもいいかげんに作られているからだし、それがいい加減でも作品たりえているのは作品の形式に対する醒めた目、藤幡正樹の言う「メディアのチェック」という意識があるためで、ヴェロニカ・シェパスの作品はちょっと「アーティストブックの優等生」っぽいけれど、それでも「メディアのチェック」としての側面は保持している。


うらわ美術館というのは多分さいたま市が運営していて(サイトを見ただけでは運営母体がわからない)、ホテルの1フロアを使っている美術館で、コレクションとしてアーティストブックを集めている。そのまとまった展示になっていた。これはとても良いコンセプトではないだろうか。箱だけに予算をかけて、中身と運営にまったくお金を割かない(コレクションを持たずに作品の自由な出入りの場となる21世紀形メディアセンター!)世の美術館行政より遥かに先進的だと思う。もちろん大型の人気美術館とは異なるから企画は地味なものが多いけど、それでも5年前には「フルクサス展−芸術から日常へ」という凄い展覧会もやっている。前回が開館5周年記念で今回が10周年記念ということらしいが、合間合間にもちょっと「おっ」と思う企画がある。自分の地元にこういう施設があるのは嬉しい。