マンガ「よつばと!」を読んでいて、やばいな、と思った。ほとんどここには「何もない」。それはこのマンガがくだらないとか空虚だ、ということではない。積極的な意思に基づく洗練された技術が駆使されて「何もない」ことを目指された作品なのだ。ある町に子供「よつば」と父親らしき「とーちゃん」二人が越してくる。よつばは極端な田舎から来て住宅地の一般的な常識に疎いため、新しい町で少し調子の外れた(しかし致命的にはけして至らない程度の)行動を取る。周囲の人物たちはよつばの行為を柔らかく受け止め肯定してゆく。その小さなギャップと肯定の繰り返しが産む幸福感が描かれる。ようはそれだけの作品になる。ギャグ、といっても本当に小さな、およそ想定しうる範囲を越えない(というよりここではギャグの効果が決して一定の範囲を越えない様に計算されている)。


だけど、1箇所あれっと思う所があって、それは主人公の子供のよつばの生い立ちが暗示されるところだ。天気が悪くなったところに隣人の女子高校生、綾瀬風香がきて、よつばのことを何気なく問う。そこでよつばが、海外で拾われた子供であり「とーちゃん」と実の親子ではないことが明かされる。ここでは、降り始めた雨を大喜びして、傘もささずずぶ濡れになるよつばと、よつばに誘われながらそれを断り、玄関で少し距離をもってよつばをみつめる「とーちゃん」+風香が描かれる。ここでは、確かに一般に皆がいやがる雨に感激し、ずぶ濡れになるという逸脱を働くよつばを、とーちゃんと風香が柔らかく受け止めている。しかし、同時に、彼等自身はよつばの誘いを断り、自らは濡れることなく屋内から見守っている。この差異はつまり、例えどのようによつばが肯定され受け入れられようと、そこには絶対的な「距離」が存在することの表現になっている。よつばは一見して日本人には見えない容貌をしている。それは第一話で風香の妹の恵那が公園でよつばを見た瞬間に外国の子かと思うシーンで強調されている。どこまでいっても彼等は親子ではなく、よつばは常に異邦人であることが身体的(視覚的)に表象されている。


つまり、このマンガで反復される「幸福感」はどこかで必ずその背後に「けっして一体になれない」という事実によって重層化されている。簡単に言ってしまえば、その距離感が「切なさ」として機能するように構成されている。このマンガは夏休みが始まる日に第一話が設定され、おおよそのところ1話で1日過ぎてゆく。だから、9巻まで進んでもようやく夏が終わったにすぎない。この「遅さ」も注目される。つまり、このマンガは表面的には「終わらない夏」として感受されるし、1話の中での時間は止まっている。しかし、実際には時間は少しずつ進行しており、はっと気づけば終わらない筈の夏が終わっている。よつばの永遠の終わらない肯定は、しかし実はどんな小さな肯定を積み重ねても埋まらない距離・孤独と、いつか必ずやってくる終わりの予感から「深さ」を付与される。ここで、なぜ「よつばと!」のギャグが面白すぎないように計算されているかが理解できる。根本的に「よつばと!」は悲劇なのであり、その悲劇、つまり「切なさ」の感情の最大化の為にギャグはエフェクトとして挿入されているのだ。


よつばに対する肯定はいつもある種の排除と表裏一体だ。例えば隣人の風香の家でクーラーを知ったよつばは、しかしクーラーを使うことは「地球温暖化」という「悪」のものだと教えられる。そして自分の家にもクーラーが在る事をしり、とーちゃんも「悪」なのかと動揺する。ここでよつばを説得するのは風香の姉のあさぎで、その理屈は「クーラーは地球を冷やしている」というものだ。端的に言ってこれは欺瞞だ。別に「地球温暖化」の科学的事実がどう、という事ではない。大人の理屈を真に受けてアイディンティティの危機に陥ったよつばに対し、周囲の人間はきちんと筋を通す、という事をしない。そのような「筋」がもたらす緊張を割けて、ファンタジー(嘘)によって現実とよつばの切り分けを図る。いつもいつもそうなのではないが、この「異邦人」よつばによって開けられる日常の亀裂、つまり社会との間のギャップは、ファンタジー≒嘘によって埋め込まれる。恵那の写生に一緒に行くよつばは、恵那の友達みうらに「絵が下手」という「現実」をつきつけられる。そこで訪れた危機は、他の大人の「よつばは絵が上手い」という言葉で回避される。読み流せば不思議はない。小学生から見たよつばの絵は下手であり、大人から見ればよつばが楽しんで描いた絵は内容にかかわらず「上手い」のだから。だが、ここで奇妙なのは、みうらが最後まで「よつばは絵が下手」という自分の判断を通さず、途中でよつばに配慮して「上手い」と言うところだ。それは、やはり、端的に、嘘だ。


クーラーの時のファンタジー(嘘)と同じように、みうらの嘘はよつばを肯定する。嘘がつかれる理由は「よつばは変わってる」=自分達とは違う、からだ。それは「現実」からの排除となっている。なぜこの物語ではよつばは筋の通った、すなわち緊張と摩擦のある現実との「調停」(去勢?)を受けることなく、ファンタジー(嘘)によって現実から排除されるのか?よつばが「本当の」子供ではないからだ。このことは暗に作品世界において前提されている。そして、その、嘘と排除によって成り立つ「幸福」のメタ構造を、読者は十分に理解しつつこの物語を読み進めていく。よつばは大人にならない。この物語はいつか終わるのだから。よつばは自分(たち)とは異なる。自分(たち)は大人になるのだから。そこには決定的な距離があり、悲しさ=切なさがある。よつばは夢なのだ。それはいつか醒める。


こういった、どこか閉塞感のあるこの作品が勢いを持つのは、とても即物的なよつばの運動のまっすぐさ、そのふり幅の大きさにある。止まっていたかと思えば直線的に走り出す(全力疾走)。ブランコを教えて、ふと目を離したすぐ後で見れば限界まで高く漕いでいる(そして手を離して宙を舞う)。寝ていたかと思えばばっと起き上がって戸を開ける。プールに飛び込む。電柱に上る。こういう「運動」に、よつばは躊躇がない。あるいはタメがない。ギャグや構成が綿密に枠組みに丁寧に収まる中で、よつばの運動だけはそのスパンが作品のフレームより少しだけ大きく長い。このよつばのスポーツによって、「よつばと!」はいわゆるセカイ系的「切なさ装置」から差異化できている。こういうバランス感覚があずまきよひこのセンスあるところで、いわゆるおたくっぽいマンガ、という範疇にとどまらないものを形成することに成功している(これでよつばの「運動」がなかったらと思うとよくわかる)。