旧フランス大使館でNo Man’s Land展を見た。とは言っても、私はこの展示の全体を見きれていない。なんというか、良くも悪くもむちゃくちゃな展示で、かならずしもゆったりしたスペースではない旧庁舎(廊下や部屋は特に広くないし、またたくさんの観客がいた)に、これでもかと作品が玉石混合で突っ込まれていた。今時美大の学園祭でももう少し統制がとれているだろうと思うのだけれども、もちろんこの展覧会は「近代建築だったフランス大使館跡」というコンテキストで「むちゃくちゃ」をやることに焦点があったのだから、それを踏まえて判断すべきだろう。印象だけで書いてしまえば、その狙いは完全に成功している。20世紀形近代の日本におけるシンボリックな存在でもあろうフランス大使館を破壊的に「開く」ことは物理的に成り立っていた。私が現代アートの展示でこれだけの混雑を感じたのはart @ agnesとかアートフェア東京くらいのものだ。このどちらも、展覧会というよりアートマーケットの「展示会」であったことは注意していい。このNo Man’s Land展は展覧会ではなく展示会として機能していた。


権威と裏腹の負の構成物をも背負っていた日本におけるフランス近代、という存在を「壊す」ものがマーケットである、という認識は正しい。日仏のアーティストにまぎれてイランの作家もいることも政治的に正しい。問題があるとしたら、もはや「近代」の抑圧を破壊するのに(アメリカ形)マーケットを導入して見せるという方法論は、2010年の今となってはちょっと「古い」んじゃないかということだ。企画者の意図はもしかしたらマーケットではなくコミュニケーションの導入であるのかもしれないが(なにしろイランの人だって入っているのだから少なくともアメリカン・マーケットの引き写しではない、と言えるかもしれない)、ここでの「コミュニケーション」はマーケットとほとんど区別がつかない。現在のグローバルなコミュニケーションとは、グローバルなマーケットと深い関係にある。この二つは異なるけれど、そこの差異をきちんと明示するには繊細な切り分けが必要なのであって、意図的とはいえこれだけラフにやってしまえば、前景化してくるのはどうしてもマーケットの方だろう。


その多くが日仏のアーティストでそれ以外の韓国の作家などは相対的に数が少ないことを考えれば、こういった「目配せ」も半ばアリバイ工作化してくる。会期が延長されるほど「成功」しているという言い方も可能だろうが、「美術展」ではなく「アートフェア」あるいは「アートを通じたコミュニケーション」なら人が入る、というのは現状追認だろう。もちろん、形通りの「お仏蘭西の趣味の良い芸術展」とかをやられるよりは、とも思う。ビックネームばかりではなくごく若い無名の人もいるし、個別には面白い作品だってある。なんだかんだ言ったって、現実問題として「フランス大使館」でこういう事をやるには勇気もいるのだろうし批判は覚悟の上なのだとしたら「成功」しないわけにもいかないのかもしれない。


以下は印象的だった個別の作品について。リュスィーユ・ レイボズが日本の緊縛アーティスト(?)藤原仁美に敷地内の木を縛らせたインスタレーションは相応にエフェクティブでエロティックだし死の感触もある(最初私は緊縛ではなく首つりのイメージなのだと思っていた)。ここにフランス大使館、というコンテキストをオーバーラップさせればなるほど、と思えるイマジネーションの広がりが得られるのだけれど、ちょっとそういう効果の狙い方が「ありがち」な気もする。一つ間違えると文学的になりかねない。最初からナラティブな作品なのだ、と言われればそれまでだが、樹に細い紐をくくり付けただけの所作はやや弱く感じるようなささやかさで、この弱さに積極的なものがあればもう少し広がりのある可能性を持っていたようにも思う。屋外というのは難しい、というだけのことかもしれないけれど。


吉野祥太郎の、屋上庭園(?)の一部の地面を持ち上げてみせる作品は上手くいっている。個々の作品は否応なくその場所場所と応答してしまいながら、手法自体はかなりな程度どこであっても可能なもので(もちろんそれぞれの地質によって容易だったり難しかったりするだろうけど)、いくらでも世界中を回ってリフトアップしてもらいたくなる。関根伸夫の「位相−大地」を彷彿とさせるかもしれないが、作家がそこまで意識的なのかは疑問がある。この作品が上手くいっているのは、「位相−大地」のようなオーバースケールではなく、むしろクラフト的な手頃なボリュームであること(あるいはむしろ小さいサイズ)で、この小ささがカルヴィーノ的「軽さ」に繋がっている(これが「重い」ものだったら関根の縮小再生産でしかない)。どこででも再生産可能なイメージを与えることも「軽さ」の一つだ。


リリアン・ブルジャの、紙に印刷されたバスケットボールを洗濯籠のゴールに入れさせる作品は、私には明らかに日章旗に対するコメンタリーに見える。これをはっきりと「日の丸」と明示しなかったところにこの作家の知性が(あるいは美術家としてのテクニックが)あるのだと思うけれど、こういうのを見ると、id:toled氏に誰か教えてあげてもいいのではないかと思ったりもした(イルコモンズとかどうでしょう)。こういう企画で「国旗」を扱うのはとても難しい(安易に流れる)と思う。ジュール・ジョリアンのインスタレーションは直接的すぎて面白くない。リリアン・ブルジャくらいの作戦はあってもいいのではないか。


寺田真由美は、会場となった大使館のミニチュアを精工につくってジオラマ化し、モノクロで撮影してモチーフとなった大使館の部屋にクラッシックに展示している。ちょっと面白くて、ここでは記憶やノスタルジーが虚構化される、という段階を通り越して、虚構化それ自体を素材にして再-虚構化してみる、そしてその提示がなまじっかな「写真」あるいは実際の大使館よりもずっと「記憶らしく」見える。ここで寺田の作品が、よく見さえすればきちんと模型であることが分かるような程度に精度がコントロールされていることは注意していい。実際の大使館よりも、あるいは実際のモノクロ写真よりも寺田の写真の方が遥かにイメージ喚起力があるのだ。この、豊かな現実より貧しいフェイクが豊かである、という逆説はいまや当たり前のことになっているけれど、それをモチーフのその場で展示することで1つだけ屈折が増している。


モニク・フリードマンの絵画はけっして質は高くない。それでも、そこにある線・面・色彩といった問題意識の提示は、この展覧会の中では恐らく最も反動していて、その分印象に残る。私はこの作家で一番優れているのは色彩の感覚だと思うのだけれど、それが前面に出ずに押えられているのは、この作家は色彩なり画面なりの「成り立ち」を考えているからなのだろう(つまり画面上の効果の追求ではなくその成立地点にまで遡ろうとしているのだろう)。しかしその分、「線」を要素として取り出し実体化させた作品は不要、あるいは蛇足だったと思える。そういった事も、絵画内部で(画面内で)十分追求できる筈だと思うのだけど。


田幡浩一の作品の何がいいかといえば、展覧会の文脈がまったく関係ないところだ。田幡において、美術の前提とされるような言語、つまり線と点、色彩と形態、といった分節は溶解して宙空に消える。それらは常に移行し、変容し、関係しつつ様態を変え、現れては消え、短期記憶の中の残像とオーバーラップしながら確かめようがない。建物のごく狭い隙間のようなところにささやかに設置されたプロジェクターが、最も原理的な作品になっている。


田幡と対照的に、福居伸宏の写真作品はこの展覧会における場所に対する一番ノーブルな応答と言っていいだろう。会場となった旧フランス大使館の夜の静かな佇まいをまっすぐ捉えて1室に端正に展示した福居は、ほとんど私的なメッセージを加えない(この展覧会の出品作はどれも明らかにメッセージ過剰なのだ)。皆が大勢で自己主張する中で沈黙する者は、時として最も大きな存在感を獲得する。むろん福居の「絵肌」(彼の写真にはそう呼びたくなる独自の質が在る)は単なるストレート・フォトではない。かといってプリントのマテリアルを強調するものでもない。コク、としかいいようのないその色彩は、ある種の時間の定着に見える。


菅木志雄が展示されていたのはまったく意外で、ここでこんな形で作品を見るとは思わなかった。私が知る範囲では、今回の作品は凄く優れている。会場のコンディションが悪かったことが良い方向に働いたと思える。菅木志雄はもの派の中でもグラフィカルな作家で、その品の良さが時に作品の角を落としていると思っていたのだけれど、今回の展示はまったく無骨だ。2部屋をつなぐ鉄パイプと石の連続はきちんと「関係性」へのコメンタリーになりながらけして「全体」は一気に見る事ができない。片方の部屋を見るときは必ずもう片方の部屋を「思い出しながら」みなければいけない。この構造が複雑さに繋がっている。