プラトンの「メノン」は、私が最近いくつか読んだ、ソクラテスを登場人物とする対話編の中でも抜群に面白い。「面白い/つまらない」という基準で言えば「ソクラテスの弁明」以上のものはないのではないかと思っていたのだけれども、これは予想を越えられた。「徳とは教育できるものか」というメノンの問いに対し、ソクラテスはそれをそのまま真っすぐ答えず、「そもそも徳とはなんであるか」という検討を始める。「ソクラテスの弁明」が、ある種の真っすぐさ(それはソクラテスの論理に宿っているというよりは、ソクラテスに“一発やられた”プラトンの、切実さによるものだと思う)に支えられているのに対し、「メノン」が面白いのはむしろソクラテスとメノンの対話のなんとも歯切れのわるい、ジグザグと繰り返される挫折+迂回の反復で、とても短い文章であるにも関わらず、上ったり降りたり脱線したりの複雑さが、しかしエネルギーを失わず運動を続けているところにあると思う。


例えば前半で、さんざん「徳とは何か」と問答したあげく、それがどうも今ひとつ分からない、となった場面でメノンが「それはともかく徳って教育できるのか答えろよ」とぶち切れするような所は殆ど爆笑ものだし(その気持ちはとてもよく分かる)、途中で唐突に出てくるアニュトスによるソフィストの悪口はぶっちゃけあまり上品ではなくてその分生々しい(ここにはプラトンという人の「感情」が露出している。2000年以上昔の、文字でしか残っていない記録に、個人の、このような感情、それはつまり今生きている自分とほぼ同じような気持ちの揺れが含まれていて、そこに自分が連結して共有できてしまう、ということに感動してしまう)。さらに言えば、もしかすると容姿は美麗なのかもしれないけれども、ちょっと浅薄で俗っぽいところもあるメノンという青年に、その俗っぽさに気づきつつ見た目の美しさに-シャレや社交辞令のようでありながら-半ば本気で「ぐっと来ている」ソクラテスの、中年の哀しさみたいなものが垣間見えるのがさらに可笑しい。


そういった、感情と感覚の波と一体となって、「徳」という言葉を巡って延々と繰り返される「それって何だ」という蛇行は、いわゆる哲学書と言われるものと感触が違う。どこか小説として読める。この「蛇行」は、けっして連続していない。途中でぶつぶつと途切れ、まったく別の所から新たな流れが始まり、それが放棄されたと思ったら唐突に以前の伏流が奪回される。かといっていわゆる断片の集まり、というだけでなく、最後の方になって、本当に危うい、仮定の仮定、という感じでなんとかかろうじてほったて小屋みたいな、子供の秘密基地みたいに脆い仮構物が示される。こういう「伽藍」ではないところにソクラテスの「現代性」を見るのはそんなに間違っていないのだろうけれど、それでも例えば西欧哲学の「伽藍」性を攻撃する現代哲学(反-哲学?)が条件として捨てきれない過剰な攻撃性や、時として不毛とすら思える緻密性・偏執性とは遠く隔たったところに(プラトンを通した)ソクラテスはいる。


率直な感想を言ってしまえば、哲学とかってプラトン-ソクラテスでいいのではないだろうか。それ以降の永々たる「哲学史」って、ほとんど蛇足というか、正直不用なものではないのだろうか。もし新たに加わったところがあるとすれば、経済や社会の変化に応答したところ、いわゆる社会学やカルスタみたいなものだけで、例えばフーコーにしても権力論とかはいわゆる「哲学」の外部のように思えるし、社会学と言ってしまえばそうなのではないか。いや、こんな言い方はいくら何でも暴論で、例えばラスコー壁画が素晴らしいから以後の美術史は不用なのだ、というくらいの極論なのだろうか。でも、美術の作品というのは結構、それ以前の作品を踏まえた上でそれを投げて飛んでしまうような形で産まれていると思うのだけど、哲学って基本的に反哲学というか、ずっとギリシャ哲学に「反抗」を続けているように見える(つまり「美術史」はほとんどかりそめの「美術の物語」=虚構であるのに対し、哲学史は例えそこでどれだけ反-哲学が語られようとその全体があまりに見事な「歴史」として成り立ってしまっているのではないか)。


メノン (岩波文庫)