古河街角美術館「ミックスジャムは見た21」展で見た小林達也氏の作品『空を飛ぶ』について。パネルにカゼインテンペラジェッソで描かれている。ところどころに色鉛筆やクレヨンで引いたような線も見えている。80号程度の大きさがある。赤、青、クリーム色、緑、黄緑、褐色、様々な色彩が筆のタッチの形態が残る状態で画面に散乱している。基本的に各色面は混ざらない。また、その密度は慎重に計られていて隙間が開けられている。重なるときは原則的に下の層が乾燥してから置かれている。つまり色彩の混濁による彩度の低下が物理的にも視覚的にもおきないように操作されている。所々には白も使われている(これは色彩間の関係の調整という意味合いだけでなく「白」という色彩としてもあると思える)。絵の具層は薄く、パネルに張られた紙の質感が生かされている。このことは作品に不思議な効果を与えている。溶かれたカゼインテンペラ不定形なエッジを持ち、ところどころ重力に従って垂れた痕跡もあるのだが(この垂れも偶然というよりはコントロールされたものに見える)、しかし画面全体はその水分が染み込み飛んだ後の、さらりと乾いた質感をたたえる。


小林氏の作品は、VOCA展に出品した2007年頃(参考:id:eyck:20070327)から変化を始めているように思える。それまでの作品、たとえば2006年のガレリア・グラフィカにおける個展等では、色面同士の関係が極めて緊密で緊張感があり、相互に差分化/差異化しあうFragmentのエッジは鋭かった。そこで引き起こされる視覚上の惑乱は驚くべきもので、「色彩分裂病」とも名付けたくなる網膜への、ある種の攻撃性を保持していた。2007年頃からその緊張感に満ちた色の戦争状態が緩められ、相互に距離が置かれ、溶かれた絵の具にも濃淡が作られ、薄い面は染み込み透けるようであり、濃い面はぼってりとした豊かなフィギュールを持つ様になった。「垂れ」もこのころから積極性を増した。結果、作品は一種の遊びに満ちた状態になり、攻撃性は背後に退いてきた。この事は、各作品に時折質のバラつきを産むことに繋がっていた。薄い絵の具は混濁することもあったし、大きく取られた「染み込む」絵の具は各色彩の関係にぽかりと開いた穴のようにもなることがあった。


今回の出品作でも、たとえば『いくらでも こぼれてく』は、画面が大きく、各色面間の「距離」は『空を飛ぶ』よりも近く密集している。この事が各色彩の関係を時に不明瞭にしているし、フレームとの関係も必ずしも適切とは言い切れない。その点、『空を飛ぶ』はサイズが比較的小さく作品を構成する各要素の関係性が明晰であり、いわば「成功」していると言っていい。もっとも、もう1点出品されている『輪郭へ(光るまま)』を見ると、このような見方が適切かどうかは疑わしい。『輪郭へ(光るまま)』は、コラージュの手法が前景に突出し、絵の具は『空を飛ぶ』とは反対に見事なまでに混濁し色彩は沈滞している。明度の落ちた背後に鮮やかな青が覗き見える様はこの作家の意外な(とはいっても「ミックスジャムは見た」展の継続的な参加者ならこの作家のバリエーションは既知ではあるのだけれど)幅の広さを感じさせるものだ。強く厚く盛られた「白」が極端にコントラストを成していて、色彩のオーケストレーションの熟達者としての小林氏、というイメージは一面的にすぎないことも解るだろう。そう考えてみれば、ここ数年の小林氏のゆらぎも、積極的に見ることができる。


とはいえ、やはり小林達也という画家の最も魅力的な部分が、薄く明るく軽快な色面の運動感覚にあることも事実だろう。ほとんどなんでもあり、というような自由さを持った作家であるからこそ、焦点がぴたりと合った時の効果は素晴らしい。鮮やかな狩野永徳、とでも言いたくなるような、音楽的(グールド的!)資質は、はっきりと『空を飛ぶ』のような作品においてこそ結実していると、ここでは言い切ってしまいたい。上でフレームとの関係、と書いたが、『空を飛ぶ』においてはフレームはいわば事後的に現れる。そこではイメージ内部での各タッチ・ストロークの無限連鎖的な関係の複雑さが作品サイズをはっきりと越えており、物理的な作品の「端」は、そういった豊かさに対する一種の句読点として作品経験の後からついてくるようなものとしてある。小林氏の良質な仕事ではこういった現象がよくおきる(『いくらでも こぼれてく』の方では、このフレームが前提としてある-絵のイメージより「先」にやってくる。これは恐らく作品の大きさに小林氏がかなり意識的に取り組んだ結果ではないかと推測される)。


●ミックスジャムは見た21