・自分が初めて、なんとなくピン、ときた感じで描いた絵のことを覚えている。小学校4年生の時だった。写生大会だったか、あるいは普通の図画の授業の時間だったかは忘れたが、校外に出ての水彩画の授業だった。農業用水路の縁に座って対岸の工場の一角にあったトタンの簡素な小屋を描いた。


・なぜそのモチーフを選んだのかは記憶が無い。小屋の屋根の上に覗いていた、その向こうの工場(水処理かなにかしている所だったと思う)の、ちょっと無骨なパイプやプラントみたいなものが気になったのかもしれない。しかし、実際に絵の中心になったのはあくまで小屋だった。青い塗料が塗られた波板で作られ、部分的に歪んでいた。手前には用水路岸に植わったたくさんの枯れ草があり(秋だっただろうか)、さらに手前に木の杭が打たれそこに針金が渡され人が水面に近寄れないようになっていた。


・画板に挟んだ画用紙に描いて行った。ある段階で、私は、自分の絵が、現実の風景の中にある小屋とは異なる形で、「いい」もので満ちている気がした。もちろん、こんな分析的なことを考えたわけではないけれども、実際の風景を元に、実際の風景から切り離された形で、私は私の絵に熱中し始めた。私はこのとき「絵」というとものの一歩奥に踏み込んでいったのだろう。先生には褒められた。だが、そんなことは関係がなかった。実際の風景に似せることも、先生に褒められる事とも、その経験は切り離されていた。


・今思えば、私が自分の力で絵を描くということ、そこに含まれる何事かに接近を始めたのはあの時だと思う。あの感覚を起点に私の製作はあって、もしかしたらあのとき描いた絵が、私の作品の中で一番いい部類のものなのかもしれない(そうは思いたくないけど、こういう事について「発展」とかはあんまり信じられない)。


・絵(あるいはきっと芸術、という大きい言葉に置き換えてもいいと思うのだけれど)の価値は何かの魅力に似ていること、「誰かの価値(観)において良いもの」であっては基本的に成り立たない。それは誰のものでもない価値においてのみ作られていなければいけないし「誰かに」評価されるというのは、それはその人の価値の体系とは無関係な場所にその人を連れ出した上での話でなければならない-「誰かの価値(観)を補強する評価」を得る作品ほど悲惨なものはない。