なぜ今頃になって私は終わってしまった「ウィリアム・ケントリッジ」東京展についてこんなにも長々と書くにいたってしまったのか(2)


(昨日の続きです)展覧会を見た誰もが思う基本的な疑問-つまり彼はなんでこんな苦労をわざわざしているのか-を簡単に棚上げしてはいけません。そして、そのための手がかりは、会場最初に置いてある「メモ」と題された小さなモニタで見る作品です。ケントリッジ自身が登場し、さまざまなイメージをドローイングしてはそのイメージがいわば「勝手に」動き出し、ケントリッジが振り回されるという、シニカルといえばシニカルな(自己批評的な)作品です。ささやかな提示の仕方ですから見逃した人も多いでしょう。しかし、この作品こそケントリッジの基本的な欲望を露にしている超重要な作品です。ここでは、俳優であるケントリッジは、常にイメージを「固定」しようと奮闘します。紙から逃げ出す黒い木炭のイメージなど、代表的だといえましょう。すなわち、ここでは作家がイメージを努力して動かしているのではなく、イメージ自体が自立的に運動してしまう。そして、おそらくは、そのような「動いてしまうイメージ」に対し、足かせをつけたくてあのような初期作品群、およそ映像に適さない素材を用いた映像が生まれたのではないでしょうか。先の言い方になぞらえれば、どうしても複数のイメージに支配されてしまう状況を固定するために、ケントリッジはあのありえない努力をしたのだと。


これは画家の態度でもなければましてや一般のアニメーション作家の欲望とも異なります。彼らにおいては動かないイメージを動かす技術、あるいは動いていないにもかかわらずまるでそこで現実に事態が進行しているような「迫真性」を獲得することが目指されます。海外でも有名であろうテレビロボットアニメ「エヴァンゲリオン 」で有名なシーンがあるのですが、少女パイロット二人がエレベーターにいる場面があります。片方は調子を崩していてもう一人にコンプレックスを感じている。このシーンは恐ろしく長い間「動きません」。1度だけ調子を崩している少女が鼻をすするようなわずかな動きを見せるだけです。この中で、まったく異なる心理状態にある二人の緊迫した接点がふいに描かれる。半分放送事故のような箇所なのですが、しかしこのカットでは、低く流れるエレベーターの動作音と状況によって、観客はそれがずっと縦方向に「動き続けている」空間だと読み込みます(その「動き」が二人の心理の交錯へとちかづく)。ここで、画家と日本のリミットアニメーションの作家の奇妙な共通点が了解されます。どちらも「動かない」単一のイメージをさまざまな仕掛けを施すことによってあたかも「動いている」(あるいは複数の時間が流れている)イリュージョンとして提示しようとしているのです。


ケントリッジがやっていることはまったく逆です。これが日本の商業アニメと「アートアニメ」というカテゴリの差から来るものでないことは強調しておきます。押井守「天子のたまご」などは商業アニメの現場と文脈で作られた作品ながらほとんど「アートアニメ」の領域を侵しています。またヤン・シュヴァンクマイエルの作品なども、それが明らかに人の動作(食べるとか)の「動き」の奇形的な拡大に焦点があってけして「動きを止めたい」という衝動に駆られているわけではない。どちらも「動かない」ものを「動かす」志向を持つことに変わりない。そもそも「アニメーション」とはそういうメディアではなかったか。動いてしまうものを固定するためにあえて過剰な抵抗を導入してみせる、これは私が知る限りまったくケントリッジ独自の衝動でしょう(他に近い資質の作家がいたらお教えください)。反-アニメーションといってもいいし、根本的に「アニメ」をまったく逆の場所から照射することによって「アニメーション」あるいは「映像」という“メディアのチェック”(by藤幡正樹)として機能してもいる。初期作品が優れているのはその点です。彼は、やや性急な言い方をすれば、絵を描きたいにもかかわらずどうしても「絵」が描けない作家なのです。画家になりたいにもかかわらず画家になれない、と言い換えれば少し意地悪でしょうが、これももちろん彼の「能力」の問題ではない。そのイメージの質の問題です。エンジン全開で加速しようとしている自動車に、無理やりサイドブレーキを効かせて重りを乗せながら、しかしその結果かえってコントロール不可能に陥っているドライバー。初期ケントリッジをたとえようと思えば、このような例えになりましょう。


こういった「抵抗」が、たとえば南アフリカというこれまた極めて特殊な社会的課題を持つところに起因するのだ、というような言い方はまったくの誤解です(そうであれば南アフリカにはケントリッジが溢れているはずです)。確かに作品のテーマは社会性を含んでいますが、それはいわばロケットの発射台のようなものでロケットそのものではない。もちろん、彼の作品が放つメッセージは相応に真剣に受け止められるべきですが、しかしそれはむしろ社会的、というよりはケントリッジのごく内在的な圧力の場においてであって、受け手にあってもそのような内在性においてしか語りえないでしょう。その内在性とは、要するにここまで書いてきたようなメディウムの引き裂かれが生み出す「抵抗」というレベルでありうるはずです。南アフリカという固有の場所のコンテキストはむしろ背後に退き(どうでもよくなるわけでは無論ありません)、異なる水準に投影されて再現されるのです。


ここまで書けば、なぜ私が初期の代表作≪プロジェクションのための9つのドローイング≫だけを評価するかはご理解いただけるはずです。他の映像には、こういう「抵抗」が基本的にないのです。難しい話ではない。消すのも描くのも面倒な木炭によるドローイングが無くなり(あるいは極端に減る・他の手段に置き換わる)、影絵のような「動かないものが動いて見える」一般的な技法が前面化することによって「動いてしまうイメージを押さえ込みたい」というような「抵抗」は消えてしまう。ステレオスコープのような「視覚的」作品などは、いわばごく洗練された「現代美術」として見事にプレゼンテーションされている、と言ってもいいでしょう。「南アフリカ」という特定の文脈が要請されるのはむしろこういった純粋に知覚的な作品においてではないでしょうか?すなわちクールな「現代美術インスタレーション」も、けして欧米、あるいは日本のような経済先進国(この言い方がまったく怪しくなってきているのは注意いたしましょう)だけのものではなく、様々な困難を抱えた地域からも発信される。このことはこのことで有意味でしょうが(実際、サッカーワールドカップの開催にあわせて、様々な「文化的」発信が南アフリカから行われるであろうことは良いことでしょう)、既存の価値の体系を組み替えることが「美術」の可能性であるならば、その可能性は初期作品にこそあるのであって、後の作品は「現代美術」なる形式を内部から再補強することにしかなりません。車の比喩を続けることは危険でしょうが(こうした私信なら安心です)、そのような作品を操るケントリッジは、ずいぶんと快適にドライブを楽しんでいるように見えるのですね。


長くなってしまいましたが(そして最後はいささか否定的な書き方になってしまいましたが)、全体としてとてもよく練られた、そして質・量ともに充実した展覧会であったことは間違いありません。そもそもこのような文章を書くことは、まったく私の予定になかったのですが、今回書いてみて、改めてウィリアム・ケントリッジという奇妙な作家について考えることは、とても有意義でした。まさかいまさら広島まで追いかけていって、とは申しませんが、万一チャンスがあればぜひ。これで紹介が終わってしまう作家でもないでしょう。ただ、やはり初期作品が図抜けてよいという判断は覆りそうにもありません(懐の深そうなアーティストですから油断は大敵でしょうか)。


季節の変わり目ですが、花粉症など大丈夫でしょうか。春めいてくる時期は心身ともに不安定になる傾向が私にはあります。●●様もご自愛ください。


永瀬恭一