「組立」で出す、というか作る本の、おおよその構成が固まりつつあって楽しい。私が(境澤さんと)編集しているのが申し訳ないくらいに贅沢な執筆陣が並ぶ予定で、内容もちょっと困ってしまうくらいに充実しそうだ(ハンディな本が作りたかったのだけれども、それどころではないボリュームになりそう)。お声がけした方にはとても積極的な応答を頂いていて、恐縮してしまう。こんなことが可能になったのは、もちろん今回のパートナーの面々、ことに境澤さんの力が大きいし、ART TRACEが持つ林道郎さんの本の出版実績への信用があるからで、私などはその土台の上であれこれ好き勝手な構成を作っている。


最初、この本のテーマは「知覚の臨界」の1言で設定されていて、実際そのテーマに沿った物が最も大きな柱になっていた。けれども、作り手の傾向というものは恐ろしいもので、気づけば私の作品の問題意識とどこか平行線を描く様に、「知覚の臨界」というテーマを下支えするものへの視線が侵入してきている。具体的には建築とか、書籍それ自体への思考とか、「組立」とはそもそもどういう試みなのか、といったtxtが本の後半を構成しそうだ。これをシュポール/シュルファス、という言葉にパラフレーズしてしまえば、松浦寿夫さんに参加頂いていることと相まって、やや「出来過ぎ」の感があるのだけれども、本というのは完成してみなければわからない。まだプランは走り出したばかりではある。


この本におけるイメージ+基礎、という二層構造が絵画のアナロジーとして捉えられるというインスピレーションが得られたとき、私はこの本の全体がほぼ完全に「了解」できた。こういう体験は初回の「組立」でもあったことで、最初のもやもやとした、漠然としたイメージが「異なるものが接点を持つ」というフレーズ1つで一挙に形をなして意識の水面上に浮上した、あのときととても似ている。もっとも、今回の「組立」は初回、あるいは2回目とはボリュームが異なる。その過程で様々な勉強をしているのだけれども、同時に、「組立」という試みが持つラフなところ、今の自分で可能な素材で「とりあえず作る」感覚は失わないように気をつけている。ハックな感覚-「組立」は良いハックでありたい。


あと、今になって「組立」という言葉のもつ、独特の「強さ」を実感する。この言葉を“想起”した段階で、私の「組立」における仕事の大部分は終了していたのではないだろうか。想起、という言葉は自分の「生」の前、いわば自分自身の外側へアクセスして取り戻す認識のことなのだけれども、そういう意味ではこの「組立」という言葉は、多分、私の資質を越えた射程距離を持っているのだと思う。だから私が「組立」を所有している、というようなことは全くなくて、むしろ私が「組立」に追いつこうとしている。そして、もう一つ大事なことがある。私は私で「組立」から独立し自立した生を生きなければならない。「組立」に従属してしまったら終わりだ、という感覚はしっかりと持っている(だから個展とかも確実にやっていかなければならない)。そうでなければ「組立」と対等に渡り合うことができなくなる。