吉祥寺「百年」で古谷利裕作品展「線と色と支持体」。狭い空間の書店の、主に上のほう、壁面の隙間や梁を利用して、作品が展示されている。大別して、ドローイング(紙にモノクロの線で構成されているもの)とタブロー(パネルやキャンバス、段ボールなどに彩色されているもの)に分けられるように見えるが、仔細にみればその境界は曖昧になる。紙に墨やペン、修正液などで描かれているものはビニールの袋に入れられ隅をテープで固定されている。大きさは、A4あるいはそれよりもっと小さいものなどで、複数の線の組み合わせの作品の他、かすれたペンで線の間を、隙間を多く残しながら塗って面を作ろうとしているもの、修整液が一部に塗られたものなどがある。タブローは一般的なキャンバスに絵の具が、やはり隙間を多く残して塗られたものの他、段ボールにクレヨンで描かれたもの、木製パネルのうえに直接描かれたものなどがある。この他に、モチーフとなったのであろう植物の写真が提示されている。


雑多で要素の多い書店という空間の中で、その雑多さとどこか呼応するような「雑多」な線、あるいは面(例えばレジの横に展示されていた、キャンバスに彩色がされた作品の「面」は、ぐいぐいと筆がこすりつけられたような筆触の色彩が複数身を寄せ合うように集まっていて、そのフラットでない面が近接してある状態が「雑多」に見える)が、しかし周囲の空間とははっきり切り離された「雑多さ」を形成する。現実の書籍が店内で形成する雑多さは、本自体の物理的な重さ、占める体積、あるいは匂いや確かめられる手触りによって成る。そしてその有り様は密集しながらも客、あるいは店員によって検索可能な秩序によって構成されている(おおよそ写真集、文庫、美術書といった分類が棚ごとにされている)。対して、作品の作る「雑多さ」は、そこに基本的に重さや実際の空間はなく、ただ視覚的な線や面、色彩が作る現象的/知覚的な水準でのみ「雑多」であり、その「雑多さ」が形成する秩序は(そこには確実にある秩序がある)、現実的な必要性とは切り離されたものによって構成されている。ここにある雑多さ「作品世界」は書店の「現実世界」とならびたつ。


会場に入ってすぐの壁面にある小型のドローイングは、作品完成度としてはもっとも高い。個々の線の持つ性格と画面内での役割は無駄がなく、フレームとの関係も明快になっている。しかし、視点を「雑多さ」に置くならばやや整理されすぎているとも見えてくる。この展覧会(?)で一番優れて見えていたのは梁に張られていた、かすれたペンで線の間を塗り、または部分的に修正液を使った作品で、これらはいわば「線で構成されたドローイング」でも「色彩面で構成されたタブロー」でもない。この作家は明快な展覧会名の通り、線、色彩、面、といった言語による絵画要素の文節を受け入れており、その整理のうえに製作をしていることが作品からも理解できるが、かすれた線によって面をつくる、あるいは修正液などで線とも面ともつかないテクスチャを構成する作品においては、そのような意識的な整理が一瞬失われ、いわば文節がねじれた連結を見せて豊かな不透明さともいえるものに触れている。ここで線とも面とも言い切れない「描き」が見せるボリュームはいわば基底材の物理的な平面をわずかに拡張させる力を獲得していて、そのひろがりは、どちらかといえば画面に水平な(二次元的な)ベクトルよりは画面に垂直な、立体的なふくらみと見える。実はこの作家の資質はこういうところにあるのではないかと想像される(2006年のA-thingsのドローイング展にもそのような「ふくらみ」のある作品が散見された)。


対して、やや大型で、様々な材質が試されているタブローは、基底材のバリエーション、その物質的表れに対して置かれた線、あるいは色彩といった絵画要素が弱く、むしろ基底材のもの的力、マテリアルのベクトルに絵画空間が「負けて」しまい、大きく開けられた余白から物理的な力が絵画空間を押し込めへこましてしまい萎縮している。端的に言えば手数が足りていない。やや異なる傾向を持つのはこれらの作品の中でもっとも「自由」に描かれたのであろう段ボールにクレヨンで描かれたものだ。すべりの良いボール紙の上を走る線が作る形象は、いわば子供が描く記号的な線、あるいは漫画的な線に近接している。この線は段ボール、しかも1枚の厚紙ではなく箱状のものが広げられたものの上に描かれていることで、「段ボール」「クレヨン」といったものに付与されたコノテーション(小学生、幼児性、遊戯性、漫画性etc.)を想起させる作品になっている。展覧会名から連想されるあからさまなモダニズム的思考から、実はこの作品で作家はまったく異なった場所に「ワープ」しているが、こういった試みもいわば「バリエーション」の一部なのかもしれない。しかし、いずれにせよこれらの試みは試みの段階であって、まだ芽吹いているとは言いがたい。この記事では一貫して「タブロー」という言葉を使ったが、作家の意識としてはもっとラフな、「作品意識」を解除する方向を模索しているのかもしれない。展覧会はすでに終了している。