森美術館で「六本木クロッシング2010」展を見てきた。私は前回2008年の同展について、会場に行かずに悪口を書いたのだけれど(参考:id:eyck:20080117)、今回は、そういう経緯とかはぜんぜん意識せずに、ごく普通に見にいった。単純に言って、まったく見に行く気にならなかった前回に比べよい企画になっていると思う。「現代アートショー」として、最低限成り立っている。「芸術は可能か?」というダムタイプからサンプリングした問いかけはそのまま「(六本木クロッシングという)美術展は可能か?」という疑問に折り返されるし、一度その折り返しを含んだのなら、少なくとも批評的視点は確保できている。今、同時代の美術で展示をするなら、こういった問いかけは新鮮とはいえないまでも(何しろ20年になんなんとする「古い」キーワードだ)踏まえられるに足るし、だとするなら3人のキュレーターはプロの仕事をしたことになる(「趣味でいいじゃないか」と比べてみよ)。


出品作家数も絞り込まれて適正なボリュームになった。見せ方も相応に丁寧だった(初回のジャンクな展示がうそのようだ)。もちろん作家のチョイスに疑問なしとはしない(というかこういう「現代美術ショー」と私はなんの接点も持ち得ないから当たり前なのだけど)。いまや「大御所」の森村泰昌をこのタイミングでここに呼ぶことに「間の悪さ」を覚えるのは私だけだろうか?絵画のかの字もないのはもちろん「現代美術ショー」としてまったく正解ではある。そのパッケージから推測される範囲に見事に収まっているといえば言えるけど、そういうパッケージを問う姿勢も見せないで「芸術は可能か?」と大声を出すことに気恥ずかしさを感じてもいいじゃん、とも考えてしまう。とはいえ、会場をみれば、賛成するしないは別にして各キュレーターは、誠実に「この作家を紹介することが良いことなのだ」という姿勢を持っていることは確認できたし、個別の作品のクオリティも揃っている。ここでの「クオリティ」とはけして芸術作品としての水準ではなくクラフトの水準でのものだけど、少なくとも工芸としては成り立っている。そのハードルは確保しようという“保守的姿勢”は一つの見識ではある。


この展覧会で「可能である」と前提されている「芸術」とは事実上「メッセージ」のことに他ならない。「メッセージ」のある、あるいはメッセージそのものである作品だけが「芸術」として可能だというのが「六本木クロッシング2010」の姿勢だ。そのメッセージはおおよそ社会的な(政治的な)ものと個人的なものに二分されるけれども、はっきりしているのはメッセージの「受け手」が事前に想定されていることだと思う。「届く」ことが明快に了解される、指向性のはっきりしたメッセージは、だから、まったく「誰にもとどかず消えてしまう」弱さ(あいまいさ)を認めないし、そもそも「届く」という状態への疑義も挟まれない。そこで想定される宛先とは、つまり「効果」のことなのだ。「効果」が確認できるもの。それこそが「芸術」なのだという見識は、私のような立場(この展覧会で一顧だにされない「画家」の立場)からすればまったく承服できないし、そもそもそういった企画のフレームと無関係にありうる作品の細部にだけこの展覧会の見る価値は存在していると思うけれども、もちろん、こういった「批判」が可能なのはこの展覧会に主体的意思があるからで、少なくともその部分は認めなければフェアではない。


こういう意思が発揮されたのは、おそらく日本の美術状況への意図があるからだと思う(ゆえにその認識はドメスティックに限定される)。つまりゼロ年代スーパーフラットあるいはサブカルチャー的アートに対して、広い意味でのソシアルな、あるいはポリティカルな作品のフレームアップが目指されている、という傾向は指摘していいだろう。六本木ヒルズの最上階で行われているこの一見ファッショナブルな展覧会は実は極めて「ハード」で「シリアス」な展覧会だということができる。これに対置されるのは「カオス*ラウンジ2010 in 高橋コレクション日比谷」である筈で、プロのキュレーターによる社会派「六本木クロッシング2010」対自主企画展「カオス*ラウンジ2010」というアングルは、もう少し強調されてもいいと思う。


出品作品中私が面白いと感じたのは雨宮庸介のパフォーマンスだ。会場の壁に穿たれたごく狭く小さな扉を開けると、意外なほど広く天井の高い空間がある。薄暗い、しかし不明なほどではない明るさの部屋(これは「部屋」なのだ。シャンデリアがあることでそう表象される)の奥にはテーブルがあり、様々なものが置いてある。床には転々と皿が並び、正面にはスクリーンがある。入り口近くに何人かの観客がいてその前で作家本人がパフォーマンスをしている。作家はテーブルのリンゴをとり、一つ一つ床に転がす。リンゴはカーブを描いて床を転がり、とまる。作家はその軌道に沿って銀の皿をおいていく。スクリーンにはこの部屋での異なる時間のパフォーマンスが写されている。観客は、私的な雰囲気を演出されている「部屋」の中で、自分には理解できないルールに従って動く作家を見ることになる。奇妙は奇妙なのだが、私にはとてもベタに見えた。たとえば、私の家は1階が生活空間で2階がアトリエなのだけれども、壁がなく中二階(配偶者のデザインルームになる)があることもあって光が遮断されない。2歳の子供が寝付く時間帯は、家中を暗くしなければならない。結果、私は暗闇を手探りで行動し、製作の準備をすることになる。この様子を外部から客観的にみたら、かなり奇妙な秘教的、儀式的なものに見えるだろうし、実際それはある種の閉じた空間の中での個人的儀式でもあるだろう。こういう「変容」はありふれているが意識はされない。雨宮の洗練された(パーソナルだが乾いた触感を獲得している)表現はむしろオーソドックスだが、今回の出品作の中では最も内向することによって、逆にある広がりを獲得できている。


他に目立ったのは虚構性とリアリティの接点を模索するような作品で、ドキュメンタリー的なタッチでありながら明らかにフェイクの物語である「ミチコ教会」の映像を流す八幡亜樹、あるいはオーストラリアなどで取材にもとづき極めてナラティブな写真を撮る志賀理江子といった出品者の仕事は、明らかに「虚構」の方へ強く舵を切っている。つまり本物っぽい中にどこか虚構性が埋め込まれるのではなく、あからさまなまでにファンタジックなイメージを提出することで「でももしかしたらリアルなのかもしれない」という感覚を与えようとする。ここではリアリティの確保は確信的に演出された「美しいイメージ」と同一化する私にだけ訪れる。志賀理江子の写真に写る動物の死体は「生々しい現実」ではなく「美的なイメージ」であり、それはどこか「セカイ系」の感受性に近い(「私」の物語が「世界」につながっている)。こういう「女子的セカイ系」(この潮流を作ったのはもしかすると写真家の川内倫子かもしれない)を、いわば古典的ともいえるシニシズムで反転させているのがChim↑Pomだとはいえるだろう。八幡や志賀の作品と比べればショーウインドウを汚らしく食い散らかした形で成型したメニュー模型(吐しゃ物まである)とマネキンで構成した作品などは、ギャグというよりは真剣なエクズキューズであって、こういったシニシズムはそろそろ国立近代美術館に入ってもおかしくない。


決定的に強度が高く展覧会のフレームを超えていたのがダムタイプ「S/N」の映像上映だが、こういう過去作品にコンセプトと展示全体のテンションを依存した「六本木クロッシング2010」は、まともな美術展として正しく反動した。ええと、次回はどうするつもりなんでしょう。案外ネオ・スーパーフラットで埋め尽くされたりして(終わっていない展覧会のレビューを久しぶりに書いた!)。