21_21 DESIGN SIGHTで「クリストとジャンヌ=クロード」展を見ていた。写真とスケッチ、いくつかの小さな梱包作品の実物で構成されていた。どこか建築家の展覧会を思わせる内容だった。最も強く感じたのは、この人たちの基本的な力の源は、巨大なプロジェクトを具現化する・させるためのスケッチにある気がするということだ。複数の画面で構成される、またはいくつかの図面・写真とドローイングをコラージュしたものが多いのだけれども、この、コラージュあるいは画面の分割という手法の見事なイメージ生成力が、クリスト=クロードのインスピレーションを拡大させている。さらにそれだけでなく、そもそものインスピレーションの発生源になっているようにも思える。異なる「素材」を複数組み合わせて当初の「素材」を変容させ、元の状態とのギャップをビジュアルなインパクトとしながら、そこに現出したイリュージョンを人々のある意識の場所−それを「無意識」といってもいいのかもしれないと私は思っているのだけれど−に投影していく。そんな感覚がある展示だった。


クリスト=クロードのプロジェクトのドローイング・スケッチは今までも折に触れ見る機会があった(たとえば直島の宿泊施設にも展示されていた)。そのたびに、この人たちはつくづくグラフィックセンスのある人たちだなと思っていた。簡単に言えばデザイン的にかっこよく見えるのだ。手書きで塗りつぶしていく描画材の豊かな質感が、すぱっと鋭い直線によって紙の白と鮮やかな対比を描く。あるいはやはり色鉛筆によるラフなスケッチに精細な地図のコピーがはめ込まれ、自然の緻密な豊かさと作家のイメージの豊かさが相乗効果をあげていく。写真に効果的に手作業の描画が組み込まれる(環境をうまく説明するだけではない)。画面が複数に分割され、イメージボードにメモや断面図などが併置される。今回の展示ではさらにすばらしいコラージュがあって、地面を布で包むイメージスケッチなのだけど、丁寧に広がりのある海沿いの風景の岸壁のエッジをトレースして、その形に画面上に布を張り糸で(実際の計画でもそのようにワイヤーで固定することがイメージできるように)巻きつけていた。手書きの海面には船のスケッチなどもあるのだけど、このような素材のぶつけあいによるイメージが恐ろしく喚起的なのだ。このコラージュを見て、このスケッチやドローイングといったものは単なるグラフィカルな下書きでも、ましてや計画実現のための資金調達のためのものでもない、もっと重要なものなのだと思えた。


クリスト初期の、電話などの卓上の日常のものを梱包した作品を見て、そこにシュルレアリスムの影響を見てとるのは自然なことだろう。梱包という手法は明らかにマン・レイからインスピレーションを得ている(ミシンを毛布で梱包した作品を想起)。しかし、対象への視線の迂回(完全な遮断ではなく、透明なビニールが利用されていることは注意に値する)、あるいは形態の曖昧化(溶解)の結果浮上する「無意識」というものとの連続性は、クリスト=クロードの大規模で社会的なプロジェクトが高名になる中で、むしろ軽視され二人の思想の独自性が強調されている。この展覧会もその線に沿っていて、これには作家本人の意思もあるのかもしれない。しかし、いかに計画が大きくなり、社会や環境との交渉=コミュニケーションの側面が強調され、フォトジェニックな記録と短期間で消えてしまう作品の潔さ(はかなさ)が引き起こすイメージが流通しようと、ちょっとそういったものを外してみれば、どうしてもそこにシュールの影響を見ないわけにはいかない。あるいは、作家がいかなる思想を持っているのであれ、「手法」はかならず特定の(独自の)対象との切り結びを持ってしまうのだ、と言ってもいい。


クリスト=クロードにおいて梱包という手法と、スケッチにおける複数の画面の相互作用、あるいはコラージュという手法は多分どこかでつながっている。それはすなわち「手術台の上でミシンと雨傘の偶然の出会い(ロートレアモン)」だと言っていいのではないか。彼らにとって大地こそが手術台なのだ。クリスト=クロードは素材を描き、切りぬき、張り込み、そして隣り合わせることでイメージを作り上げる。そこで既に世界は元の形や意味から切り離され、相互に異なるもの同士で結び付けられる。まるで映画の切り替えしを見ているかのように本来無関係だった素材が一定の関係性を持ち始め、相互に貫入してゆく。このように作られた「梱包」の各プランは、実作においてもその痕跡を色濃く持っているだろう。それまで一風景としてあった環境が、彼らの介入によってまったく異なる素材(布や「傘」!)を導入され組み合わされ切り貼りされる。そこでコラージュされ隣合わされるものはおそらく観客や、社会制度や権力構造までも含むだろう。重要なのがこのプランの非実在性だ。長期間準備されながら短期間で撤収される計画は、まったく「夢」と同じ構造を持つ。表面化しない現実の諸制度や膨大な人間関係の集積の結果現れる彼らの作品の「イメージ」は、ほぼ一瞬で消えてしまいあとから実際には確かめてみることができない。写真や映像の記録は作品にとってまったく副次的で異質な残像でしかない−いわば目覚めたあとの記録ノート以上のものではない(そして、いうまでもなく「分析」はこの事後の写真に基づいて行われるのだ)。夢において、現実の複数の要素が圧縮され連結され重ねあわされていることはフロイト「夢判断」に詳しいが、これこそコラージュであり切り返しだといえる。シュルレアリスムとトーキーの同時代性は非常に重要な意味を持つし、コラージュの発生も同様だ。


戦後アメリカ美術において、シュルレアリスムが重要な起源でありながら事後的にそれが抑圧され背後に退いていったことはロザリンド・クラウスによって強調されている。

だが無論、これらを幾多の神話として経験すること自体が−その多くはモダニズムの芸術家自身によって、あるいは彼らの友人や同僚の評論によって生み出されたものであるが−ある有利な地点からとりわけ可能なことと思われる。そしてモダニズムの芸術は、この有利な地点−現在という地点−から終結を迎えることになったように思われる。実際、コピー、反復、記号の再生産可能性(最も明らかなのは写真という形態におけるそれ)、主体のテクスト的生産などの論点が、モダニズムそれ自体の内部において−幸福なモダニズムが合図を出すと同時に抑圧しようと努めた事柄だったということが暴露されて−新たに明るみにだされるのは、ポストモダニズムによる生産の視座の内からである。ポストモダンの芸術はこの領域(構造主義的及びポスト構造主義的分析の理論圏)に公然と足を踏み入れる。そしてここ二十年の間に生まれたこの現象こそが、今度は批評的実践を、はっきりと方法へと開いたのである。
ロザリンド・クラウス「オリジナリティと反復」序 小西信之・訳)


このtxtが書かれたのは1982年だが、その潜勢力はまだ十分強い(この本が絶版のままなのはなんとしてもおかしい。ハル・フォスター編「視覚論」が読めることを考えるとより不条理だ)。そしてこのことは、必ずしもクリスト=クロード、あるいは過ぎた戦後アメリカ美術を考えるためだけに必要なのではないと思う。まだ予感でしかないけれど、現在の日本の美術を考える際にもとても示唆的だと思うのだ。展覧会はもう終わっている。


視覚論 (平凡社ライブラリー)

視覚論 (平凡社ライブラリー)