大島弓子の漫画「グーグーだって猫である」の4巻を買って、なんども繰り返し読んでいる。そしていい漫画だなぁと思う(寝床で、居間で、アトリエで)。5巻まで出ているこの本の4巻を買っていることに「いまさら?」と思うひともいるかもしれない。私もたとえば「おおきく振りかぶって」は半年ごとの単行本の発刊を心待ちにして、webで発売日を調べて当日さっさと買ってくる。数年前までは「げんしけん」もそういう感じで毎巻を楽しみにしていた。でも、「グーグー」という漫画は私にとってはちょっと違うのだ。おおよそ1話数ページの、作家がそのままの名前で出てくるエッセイ漫画で、主だったストーリーもなく、だから決して「先が気になる」という種類の興味で読んでいない。変な言い方だけど、今まで持っていた3巻でそのままぷっつり終わっていたって不思議ではなかったし、それもしつこいくらい反復して読んでいたから、全3巻でも私のこの漫画への感情は変わらなかったとおもう。ふと、書店に寄って、書棚を見て、この漫画の4巻と5巻を見て、ああ、出ていたんだと思って、少し考えて4巻だけを買って帰った。5巻を買うのは、この4巻を3巻までと同様に長く何度も読んでからだろう。それが一番ぴったり来る。


なぜなのだろう。なぜ私は「グーグーだって猫である」と、このような関係を結んだのだろう。もちろん、大島弓子は言わずとしれた巨匠だし、実際私は「いちご物語」「すべて緑になる日まで」「ダイエット」「ロスト・ハウス」といった作品群を愛好してきたし、それらも反復して読んでいる。これらの作品群はそのすばらしい完成度と緻密な描写(と言っていいのか)、あるいは「深さ」によって読み飽きないし、古典の風格もそなえている。いや、こういった言い方は良くない。古典で優れているから私は大島弓子の作品を読んできたのではない。読むたびに、なにか自分の感覚と感情の一部が、そっと生まれ直すような、そんなイメージを持てるから、私はあの傑作たちを手放せないのだ。でも、「グーグーだって猫である」は、そういった作品とは、どこか、少しだけ違う。線は単純化され、たどたどしくなり、コマ割はシンプルだ。これは「グーグー」の前身にあたる大島弓子の猫エッセイ漫画「サバの秋の夜長」「サバの夏が来た」と比較してもそうだ。一番はっきりしているのは虚構化の度合いが極端に下がったということで、たとえば「サバ」は実際はメス猫だったとされているにもかかわらず作中では明らかに人間の男性を想像させるキャラクターだったし、各話の語り口も練りこまれたものだった。「グーグー」では猫たちは猫として描かれ、それぞれの話も半ば日記的に、即物的な「こんなことがありました」という語り口で描かれる。もちろんそれが「現実」かどうかは確認できないけれども、問題はそこではない。「グーグー」の世界は、読み手に、読み手自身の日常と地続きなのだ、と感じさせる近さがある。「サバ」の時は、エッセイ漫画でありながら、読者との連続性は1度切り離されていた(たとえば猫の擬人化によって)。簡単に言えば「グーグー」には「ひねり」がない。


ごく表面的に言ってしまえば「グーグー」の特徴は、作家の老いによって形成されている、と考えられるだろう。以前ほど緻密な絵が描けなくなり、複雑なネームが構成できなくなった(かのように見える)。しかし、「グーグー」を読んだ人ならば、そういう水準の推測がこの漫画の魅力に対しほぼ的を外していると感じるだろう。「グーグー」がすごいのは、傑作を量産していた作家が老いたとして、その衰えを否定も隠蔽もしないでほとんど丸ごと引き受けながら、その上で、その表現を一から組成しなおしている、ということなのだ。誤解を防ぐために言えば衰弱した表現によってハードルが下がった結果、「親しみやすい作品」になったということでは全然ないし、以前のファンがその名残で衰えた作品を愛好している、ということでもない。猫の好きな人たちの相互ナルシシズムで成り立っている本でもない。「グーグーだって猫である」ははっきり作品として自立している。まったく大島弓子を読んだことのない、そして猫になんの興味もない人でもこの漫画は漫画として面白く読める筈だ。問題は、その「面白さ」がどこから来ているのか、ということになる。線の巧妙さでも構成の見事さでもない、ましてや猫ファン・大島ファンといった領域にだけ届く力でもないものは、どういったところに隠されているのだろうか。


98話「冬太郎」はこの4巻の中でも、一見一番「なんでもない」話だと思う。なんの前ふりもなく「その当時」から始まるこの物語は、大島弓子の自宅近所のノラ猫が3匹いることを示し、ボスは「みつあみ模様猫」かもしれないと「大島弓子」は推測する。「しかしこれよりもっと大きい猫が現れたのである」。その文字だけのコマにつづき、「大島弓子」と同じような大きさの顔の猫が描かれる。

顔も
でかい

白い部分が
汚れて灰色に
なっている


こちらを
じっと見ている


あのまなざしは
なんというか
慈愛のようなものが
こめられているではないか


(手書きの文字で)じ…


じあいって
あんた



りっぱな
オスだ


ひとしきり見つめてから
その猫は去った

なんという猫だ
(「グーグーだって猫である」4巻 50・51ページ)

このシーンの特徴は、登場する大型の猫がまったく愛らしくないことだ。つまり愛玩の対象ではない。慈愛、という言葉が出てくるが、ではそういう要素を表象するキャラクターでもない。ぬぼっと大作りで、表情のない猫が描かれる。「お りっぱな」の文字の下にピョン、と後ろを見せた猫には睾丸が描かれ、そのあとの「オスだ」を説明する。ここには「可愛い猫漫画」の要素も、シニカルな(ホワッツ マイケル?のような)演出もない。(可愛くない)猫に、受動的に見つめられる大島弓子が描かれる。この漫画の読者は、4巻までに大島が家の中で飼う猫(それはおおよそ愛らしい印象で描かれる)が皆去勢手術を受けていることも知っているし、そのことへの大島の一種のせつなさも知っている。そういう中で読者は、ここでの大型猫には、睾丸の描写も含めて、ある種の生生しさを感受することになる。それは、すなわち、保護される飼い猫ではない、「外」の世界の猫の表現だ。


このあと、「グーグー」では大島弓子の庭に来る野良猫の話ががぜん多くなる。そして、その多くが愛らしさがない。やせてがりがりの猫、怪我をして血まみれの猫、鋭い目をして警戒心の強い猫。それらの猫と大島弓子はそれぞれの係わり合いを持つ。ここで、おおよそ「室内」で展開されてきた「グーグーだって猫である」は一定の転換点を迎えたのだが、しかし、物語の基本的な骨格は変わっていないだろうと感じる。その骨格とは、この漫画の根底に流れる「世界の愛し方」というテーマだ。


大島弓子の過去の傑作には、「今・ここ」を更新し新たな世界を生き直すという構造が濃厚にある。F式蘭丸(1975年)では空想の少年に転移する少女が、秋日子かく語りき(1987年)では一度死んだ母が、8月に生まれる子供(1994年)では急速に老いる少女が、それぞれのあり方で「生き直し」「生まれ直す」。「今・ここ」は一度否定され、書き換えられる。その鮮やかさこそ私が繰り返し読みたくなる理由だし、大島弓子の作家性でもあっただろう。「グーグー」は、これらの傑作と明らかに違う世界把握で描かれている。それが単なるベタな現実(日常)肯定であれば、話は簡単になる。そうでないから「グーグー」は魅力的なのだ。世界が更新されるには、世界との関係が更新されなければいけない。そして、その更新は、物語としてのファンタジーとは違う形で駆動できる−正確には、そのファンタジーは、必要最小限にまで切り詰められうる。そしてファンタジーが小さく、核のところまで切り詰められれば、それだけ世界は、丸ごと生まれ変わり、より多くの事物が新鮮なまま、豊かなまま生まれ変われるのだ。その必要最小限のファンタジーが「グーグー」の猫たちなのだと言っていい。世界と人の間に猫を介在させる。そのことだけで大島弓子は世界を更新できる。この魔法の呪文は長くてはいけない。呪文が長ければ長いだけ更新は大掛かりになり、その分精緻でも否定を含んだものになる。


画用紙にサインペンで描かれたような線、書き込まれない背景、大雑把なトーンワーク、シンプルな構成。おそらく、現実としては抜きがたくあるのであろう作家としての老いは、ここではその全体が短くそのぶんより大きく否定を交えない魔法の呪文として機能する。というより「老い」のような条件として大島弓子個人に立ち現れた「世界」との関係を、大島弓子は抵抗するでもなく流されるでもなく、その条件に基づいて組織しなおしたのだ。そこでの体制(制度)の構え直しが、すごい。これは別に誰にでも訪れる老いへの準備、とかそういう話ではない。明日、人は腕を1本失うかもしれない。明日、人は経済的条件が一変するかもしれない(宝くじに当たるかもしれないし失業するかもしれない)。明日、信頼していた人間関係が壊れるかもしれない。そのとき、そのような個人の不条理として現象する世界との関係を、与件として把握しなおし、その都度「構え」がアップデートできるのかどうか?「グーグーだって猫である」という漫画の凄みの底にはそのような問いがあるし、その問いの結果、ここでの「世界」は、否定を経由することなくとても広がりと開放感のあるものとして掴みなおされている(否定は、その形式に沿って、その形式を受け止められない人を排除する)。かならずしも心地よいだけの世界ではない−猫に冷淡な人々がおり、様々な不快な出来事があり、病があり(作中大島弓子は子宮ガンになる)、猫は何匹か死を迎える。そして、そのような世界を、この単純な線とエピソードの連なりが、否定のそぶりを最小限度にして生まれ直させる。そして、それこそが大島弓子の「世界の愛し方」なのではないだろうか。


大島弓子の「ロスト・ハウス」は、過去の傑作群に連なる最後尾にあたる本なのだけれど、主人公で世界に対して否定的な女の子は、かつて自分の部屋を子供だった頃の女の子に「開放」してくれていた青年が、ホーム レスとなっていることを、ある人物から聞く。街中を夜通し歩いて青年を探し、疲れ切った女の子は、朝日を浴びながらこう思う。「ああ、ついに彼は世界中を自分の部屋にして、そのドアを解き放ったのだ」。この認識こそ、「グーグーだって猫である」の基礎を形成しているように思う。この漫画は、その表現において、「世界中を自分の部屋にして、そのドアを解き放ったのだ」。


こういう本とは、私は今後もとてもゆっくり付き合うことになるだろう。本当に必要な時がくるまで、最新刊は書店に置いておく。この漫画だけはamazonで買う気にならない。お店で1巻ごとに出会い直していこうと思う。