「組立」のwebサイトを公開しました。以下「組立」専用blogより引用。

「組立」のwebサイトを公開いたします。

製作は田中秀和さん。もう何度か書きましたが、田中さんの作業はとっくに終わっていて、永瀬の方の手続きが遅くなっていました。過去の展示の様子も載せていますので、ぜひご覧ください。


今回、田中さんにサイトの制作をお願いしたのは、ご本人のwebサイトがとても印象的だったからで(「組立」のビジュアルワークはいままですべて永瀬がやって来たので、完全に人に任せるのはこれが初めてです)、実際私は今回の「組立」の方向性を、以下のアドレスを見た瞬間に確信したという経緯があります。


「組立」の次の企画を考えていたとき、実は私は田中さんのお名前も知りませんでしたし、作品を見たこともありませんでした。私が漠然と考えていたのは、写真と絵画を組み合わせて展示し、知覚の形式について考えてみたいという目論みでした。絵画を私と境澤さん、そこに私が日頃興味深く作品を拝見している写真家の方二人をお招きして「知覚の臨界」というテーマで、というアイディアを境澤さんにメールでお伝えしていたのです。


何度かのメールのやり取りを境澤さんとした後、実際にお会いした日暮里の喫茶店で、私は初めて境澤さんから田中秀和さんのお名前をお聞きしました。失礼なことに、私はその場で田中さんを他の作家さんと取り違えて認識しており、そちらの作家さんの作品のイメージを念頭においていました。その上で、私はやはり、写真家さん達との「組立」の実現を捨てきれないでいたのです。「知覚の臨界」というテーマに基づきセザンヌについて(研究者あるいは批評家の立場ではなく)作家の立場でいわば「素材」として考えていくならば、松浦さんをお呼びすることは必然でもあり、だとするならば絵画3人+写真3人、という体制もあり得ますね、というお話を境澤さんとしていました。そして、これは後から知ったのですが、私がお声がけしたいと思っていた写真家の方々のweb上の画像を見た境澤さんは、結果的にポジティブな印象を持たれた。つまり、田中さんにお声がけするという線は、この段階ではありませんでした。


しかし、境澤さんからお教えいただいた田中さんのwebサイトを見た私は、自分が違う作家さんと取り違えをしていることに気づきました。そして、一発で判断を翻しました。私がことに強い印象を受けたのは田中さんのサイトのポートフォリオのサムネールが並んでいるページです。


私はここに並んでいる画像群を見て「宇宙人が地球に降りてきて実験しているみたいだ」と思いました。あるいはNASAのwebサイトかなにかで、探査機が撮影してきた様々な世界の地表のサンプル集のようにも思えました(田中さんが「探査機」みたいでした)。美術作家として、ある程度作品を見、また作ってきた身として、悪い癖ですが作品資料を見てショックを受けるような経験はまず減っています。よくも悪くも、多くの作家の方向性みたいなもの、あるいは「趣味」のようなものというのは想像がつくものです。真摯に、まっとうに美術史と格闘しているひとなら余計にそうです(この作家はきっとあの画家が好きだろうな、とか)。ましてや「自分のイメージを自由に」とか言っている人であれば余計にそのリソースは貧しいものだったりします。ところが、田中さんの作品の画像を見ていると、自分の中のそういった、固定したカテゴリーみたいなものがすべて宙吊りになってしまいます。ここで相互に隣り合っているサムネール同士を関係づけるプロトコルは何なのか?


洒落や修辞ではなく、わりと本当に問いかけたいのですが、そのプロトコルが理解できる方はいらっしゃるでしょうか。私には、それが分かりませんでした。しかし、同時にこうも思いました。これは単なる個々のアイディアの散乱ではない。いわば「読むに値する」シンタックスがある。


マルチタスク、という言葉があります。複数の作業を同時に処理する能力のことです。あくまで比喩的な表現ですが、私はシングルタスクです。また、一般に自分をマルチタスクだと思っている人も実は大抵の場合シングルタスクなのです。彼らは単に、ある1つのジョブをスプール出力した後、別のジョブをスプールし始めるだけです。その程度のことであれば、私だってできるのです。しかし、田中さんの作品群の画像を見て推測できるのは、そういった有様とはまったく異なった資質が存在しうるのではないかと言うことです。まるで、雑多な種子を盛大に蒔いては、その芽生えを冷静に観察しているかのような感覚。私は美術史的な位置づけ、というものを田中さんに当てはめることはできません。というよりも、そのような当てはめをしたところで、そこから零れ落ちるものが大きすぎて、美術史そのものの虚構性が露になる、そんな仕事が田中さんのサイトに埋め込まれているように思いました。


我ながら酷いと思ったのですが、手のひらを返すようなメールを境澤さんに打ちました。「知覚の臨界」というテーマで「組立」をやるのであれば、田中さんと以外にはあり得ないだろうと考えたのです。自分で出した写真家との企画の全面放棄です。そういえば、第一回の「組立」を共催してくださった川口のmasuii R.D.Rに、オープニング企画展を依頼された時、インターネットで画像を見て決めました、と言われて「展覧会の企画をするときに、実作を見ていない作家を選ぶのは間違っていると思う」と偉そうにも言ったことを思い出します。そういう意味で、二重に「いままでの自分」を裏切り捨て去るような判断でした。しかしまったく躊躇はありませんでした−なにしろ自分が薦めた写真家さん達が極めて優秀であることはわかっていましたし、その人たちとの「組立」が、テーマ的にも十分成り立つことは私が一番理解していたので、大慌てで「田中さんと展覧会をしたい」というメールを打ったのです。図らずも、境澤さんからの返信は“少し返信が遅れました、写真家の方々の作品が興味深いと書くつもりでした”というものでした。


こうして、今回の「組立」はスタートしたのです。改めて新宿で4人でお会いした時の田中さんは、やっぱり少し宇宙人みたいでした(誤解のないように言えば、見た目はまったくノーブルな好青年です)。むしろ、やや仰ぎ見ていた松浦寿夫さんとお話していると、思いがけず親しみやすく人間的な温かみのある方でらしたので、余計に好対照でした(パレルゴンの頃のことなど、ざっくばらんにお話してくださいました)。私は、松浦さんの作品は、1995年のセゾン美術館「見ることのアレゴリー」展以来、断続的にですが見ています。昨年のTOKYO ART MUSEUMでの自主企画展「Philosophiae naturalis principia artificiosa -自然哲学としての芸術原理-」の時も、ステインの魅力的な使用に感嘆していました(参考:id:eyck:20090507)。境澤さんの作品も、ある程度流れが理解できる程度には拝見しています(参考:id:eyck:20090715)。もちろん、搬入当日まで油断はならないわけですが、それにしても松浦さん、境澤さんはその「流れ」を念頭におかざるをえない。


その点、田中秀和さんという作家は、まったく未知の何事かを展開してくれるのではないかとわくわくしています。この「未知」という言葉には、複数の意味があります。単に実作を知らないというだけではない。実際の作品を前にしても、きっとその「経験を宙吊り」にしてくれそうな予感があるのです。「異なるものが接点を持つ」組立の、一番エキサイティングなエレメントは、田中秀和さんその人である筈です。