おおきく振りかぶって」の14巻を読んだ。やはりこのマンガは面白い。高校野球という素材を元にしていて、もちろんその緻密なゲーム描写が素晴らしいというのは大きいのだけれど、しかし私の様に野球にまったく興味も知識もない者にも迫ってくるこの「リアル」はなんなのだろう。まずそこにはぎりぎりまで深められた高校野球というゲーム(制度)への深い理解があるだろう。そしてそこから産まれるリアリティがあるだろう。しかしリアリティは「リアル」とは違う。つまり「現実感の表現」と、表現それ自体が現実を構成してしまうという事態は異なる。「おおきく振りかぶって」は、リアリティを表現するだけでなくそれ自体が「リアル」を立ち上げている。現実に現れる様相を詳細に描くことで得られる「リアリティ」は、それ単体ではリアルを露呈させない(むしろ過剰な描写はファンタジックになっていく場合が多い)。ここでひぐちアサが掴んでいる「リアル」とはなんなのか。


この漫画の特徴として「ゲームの外」の驚くほど重厚な描写がある。単行本カバー折り返しに付録的に描かれるキャラクターの家族への詳細な設定等を見ていて思うのは、既にひぐちにとって「おおきく振りかぶって」という「もう一つの現実世界」が構築されているということだ。そこでは、実際の、我々が生きているこの現実とほぼ同等の重みと情報量を持った「おおきく振りかぶって」が精緻に造形されている。つまり、驚くべきことに「おおきく振りかぶって」という漫画自体が、広大な「おおきく振りかぶってワールド」からトリミングされ二次的に抽出されたものでしかないのだ。少し極端な言い方をすれば、一次的な筈の作家による「原作」自体が既に二次創作的構造を持っている。例えばこの漫画の前身となった「基本のキホン」は、前身というよりはこの「おおきく振りかぶってワールド」の、別のトリミングに過ぎない。「おおきく振りかぶって」は実際に広範な二次創作をその裾野に持っているが、このことは必然だ。一度「おおきく振りかぶってワールド」にアクセスしてしまえば、誰でも(原作者でも!)ある「リアリティ」をダウンロードできる。この「リアリティ」は、私たちのいる実際の世界ととても近いけれど、しかし、私たちのいる世界を詳細に描いて得られるものではない。つまり、「高校野球を細かく描くからリアリティがある」という言い方では、「おおきく振りかぶって」という作品の魅力は捉えられない。


「リアリティ」を「本物らしさ」と言い換えれば、普通に考えられる「高校野球漫画」においてはつまり「本当の高校野球っぽく」描くということになるだろう。ゲームの細部や、使われる道具や、球場までの道筋や、審判のあり方や応援席の息づかいまで詳細に描くことで得られる「本物っぽさ」は、しかしこのマンガの作り出す「リアル」への道筋ではない。むしろそういう詳細さは、ひぐちアサの作品世界の「リアル」からダウンロードされるものなのだ。本物らしさを積み重ねているからリアルなのではなく、作品世界の「リアル」から導き出される細部が迫真的なのだ。単行本ではまだ描かれていないが、この作品のファンが、けして仔細に描かれていなかった副主人公の阿部の弟の存在に対して敏感に反応したことが、実際の作品に反映したことが特定のコミュニティで話題になったが、これはいわゆる「ファンサービス」的な事とは次元がことなる。いわば作品構造から必然的に起きたことになる。ひぐちが行ったのはありもしなかった事を描くことではない。既に「おおきく振りかぶってワールド」に含まれていたことを描いたにすぎない。


この漫画は「男の子」というものを事細かに描いているが、これは実際の「男性性」と繋がっていない(というより切断されている)。例えば「おおきく振りかぶって」において重要なのは「強さ」ではない。このマンガでは敗者と勝者が、あるいは才能の優劣が、はっきりと描かれるがそこにヒエラルキーがない。いわば勝負ごとというものに埋め込まれた「男性性」、つまり「どっちが強いか」という視点は「おおきく振りかぶって」の原理を構成していない。だからこそ、ひぐちは非常にクールに、なんの躊躇も誇張(クッション)もなく「勝ち負け」「優劣」を描く。「勝ち負け」「優劣」に意味を持たせている人であれば、大抵その表現にこだわりを持つ。勝つ方(優れている方)は華々しく勝ち、負ける方(劣っている方)は悲壮に負ける(ここで「華々しく」あるいは「悲壮に」が読者へのクッションとなる)。かつてシンプルな「お色気学園ラブコメ(パラダイス学園)」を描きながら「あした青空」を挟んで突然「修羅の門」で「勝負」に特化した作品を描き始めた川原正敏、あるいは、スポーツ漫画の文脈で言うなら90巻を越えたボクシング漫画「はじめの一歩」の森川ジョージを読めば了解されるが、そこには勝つこと(強い事)に大きな意味が持たされる(「はじめの一歩」の主人公が延々と問うているのは「強いってなんだろう」ということだ)。


おおきく振りかぶって」ではどんなに魅力的なチーム、あるいはキャラクターであってもその魅力と「強さ」はまったく関係がない。埼玉高校は非常に丁寧な性格付けがされ陰影深く描かれながら、主人公チームにコールド負けする。このようなことは「少年漫画」の世界観ではありえない。また、強さに対するルサンチマンもない。「能力のないものがいかになんとかして行くか」というテーマがこの漫画にはあることは以前書いたけど(参考:id:eyck:20070124及びid:eyck:20080527)、これは次のように言い換えられるかもしれない。人は、それぞれの条件において、その条件と向かい合いながら「まっすぐ」生きていけるのか。もちろん登場人物達は勝敗にこだわるが、それはいわば「装置」なのであって価値観ではない。


ひぐちアサは「おおきく振りかぶって」というマンガを描いているというだけでなく、半ば「おおきく振りかぶって」というマンガを「生きている」。比喩的な言い方だけど、具体的には作家という「神の視点」に座る、つまり作品をメタ的な俯瞰視点から捉えて構成的に物語を作るのではなく、作家が作品の繰り広げられるフィールドにいて「おおきく振りかぶってワールド」から作品を紡いでいる。この「リアル」は、いわゆる「現実逃避」的な「幻想世界」ではない。既に、そこでは実際の現実で受けるような痛みや苦痛や不幸に匹敵し上回るような「痛み」や「苦痛」が生成する“現実”なのだ。三橋の疎外感は、阿部の痛みは、もはや私たちの現実の疎外や苦痛と均衡している。西広が打てなかった球は、水谷ができなかったスライディングは、沖の感じたコンプレックスは、田島が及ばなかったリードは、ありありと私に刻まれて行く。


おおきく振りかぶって」では、次の1球の行方がわからない(なぜなら作家はメタ的に作品世界を眺めているのではなくその世界を生きているから)。そして次の1球の行方が描かれた時、そこに「リアル」が立ち上がる。この「リアル」が、反復になるが「リアリティ」とは異なるのだ。そこには作家の欲望や、読者の欲望を含み込みながらより大きなものがある。私たちのこの世界のほんの少し隣に「男の子」がいる世界が現実と同等に立ち上げられている。私は「それ」をリアリティとは異なる水準の「リアル」だと感じるのだと思う。私たちの現実と「おおきく振りかぶって」は繋がっている。この繋がりは私たちの世界の投影でもなければ「非現実の世界の王国」への自閉でもない。いわば、ひぐちアサがつくりあげた「男の子の世界」があることによって、ようやくこの私たちの世界は外へと開かれ、自由な呼吸ができるようになり、その呼吸においてまた「おおきく振りかぶって」の世界も開かれる。


おおきく振りかぶって(14) (アフタヌーンKC)

おおきく振りかぶって(14) (アフタヌーンKC)