・アクリル絵の具の粘度の薄さというのは、こと絵の具を「色彩」という観念ではなくそれ自体の現れとして扱おうとしたとき、どうにも基底を組み上げづらい(モデリングペーストなどのメディウムを使えばいいのだけれど)。もう少しいえば、油絵の具という、非常に強い基底を持った素材は、いやがおうでもある体系を「積み重ねる」という制度として機能する。英語で話すことがある思考を強制し、日本語で記述することがある思考を促してしまうように。だから、ある画材を使うということは、どのような制度にどのように相対してしていくか、という決断の問題になる。アクリル絵の具に/油絵の具に「順応」してはならない-流暢に語ってはいけない。それと同時に、それぞれのマテリアルの形相に反するのも一種の依存になる。どちらでも無い場所に「移る」こと。


・結局、作品を作るということは一種の労働過程なのかもしれない。諸材料と諸制度を合わせたものをおおきく環境と言い換えてみれば、製作行為というのはその環境に働きかけ、その働きかけによって環境のもつ可能体を精錬し、そのプロセスにおいて製作する主体も環境からフィードバックを受けて、未だ可能体である自己自身を可変させていく。この終わりないプロセスこそが作品を作っていくという事なのだろう。誤解をしてはいけないのが、これが固定したベクトルを持った、一方向への進歩/進化的なものではない、ということだ。すなわち、労働過程としての作品制作は、それが常に「良い」もの、あるいは目指されるべき目的地への価値の上昇運動として定位されていない、ということなのだと思う。むしろ、そのつど「価値」を問い直して行くものなのではないか。


・だから、この労働は、その基本において常に不安定で方向を見失いながらの行為になる。穏やかに、一定の確信と安心を持って生産体制が循環し始めたとき、私はその労働を疑わなければならない。例えば、アク リル絵の具をアクリル絵の具「らしく」扱い、順調に作品が出来ていたらヤバいのだ(画像加工においてPhotoshop「らしい」テクスチャが生成されたらヤバいように)。


・一つの作品を作ったあと、更に次の作品を作ることは、前の経験を踏まえより「良い」作品をつくることではない。その「良い」という観念を遡上に載せる。前の作品において環境-製作主体の間で交換された「価値」を問い直し、解体し、まったく最初から再配置してゆくことが製作を続けていくということで、アトリエに散らばる作品は垂直の価値のピラミッドを建築せずに、相互に離反し独立する諸価値の諸島の様相を呈する。これは、もしかすると個々の作品内部においてもあり得るかもしれない。単一の作品として単一の価値の体系において完結していないこと。それが単一の作品である、というフレームを現象的に問い直していること。しかも、それがたんなるアイディアの散布でなく、アイディア相互(諸-idea!)があるユニオンを形成していること。そしてそれ-らがリニアに弁証法とならず、むしろ反-復していること。