ニコニコ動画の「踊ってみた」カテゴリで人気のひとにいとくとらさん、という方がいて、この人のダンスが魅力的だ。初音ミクの歌を踊っていたりするのだけど−そしてそういう人はかなりの数いるのだけど、この人のすごいところは、その「フォーム」が“初音ミク”しているところで、こういうフォームというのはいわゆるモデルさんとも異なるし、他の動画でも見覚えがない。面白いのは、この方はニコニコ動画のイベントでも踊っていて、広い、きちんとしたステージで、衣装も凝って、カメラマンもいて、いとくとらさん自身が自分撮りしているものよりはるかにリッチな映像がアップされているのだけど、これがイマイチだ、という所だとおもう。


いとくとらさんは、少し前まで非常にクールな仮面をつけて踊っていた。その仮面がとれて表情も見えるようになって、多分このあたりで人気がさらにましてきたのだと思うのだけれど、そこから上記のようなイベントにも参加されるようになり、最近では撮影機材も良いもので、どんどん「豊か」な映像を供給するようになっている。だけど、私個人の嗜好から言えば、はっきりと初期の「貧しい」映像のほうがチャーミングだったと思える。理由はごく簡単で、いとくとらさんという才能の基本的な部分は、ニコニコ動画に最適化されたところに発するリアリティにあったように思えるのだ。つまり「非人間的」なイメージ、そのフォームのファンタジックな質量のなさが、最高度に達成されていたのが仮面をつけて、チープな映像で踊っていたときではないだろうか。


顔とは恐ろしいもので、それがあるだけで急激に「主体」が立ち上がる。徐々に「人間的」に、奥行きと広がりのある空間で、効果なども含めて豊かなイメージを供給するようになったいとくとらさんが、ニコニコ動画の外へ出て行くことで−そのような、いわば健全な上昇志向を最近のいとくとらさんからは感じるのだけど−成功する可能性は、私は十分あると思う。なにしろはいとくとらさんは踊りも十分上手いのだ。しかし、私はいとくとらさんの一番の武器は、踊りと不可分にある、あの非日常的な「フォーム」にあると思う。このフォルムは、いわゆるプロポーションとは異なる。たとえば初音ミクニコニコ動画上でしばしば3Dのモデリングを施されているが、その場合薄くスカスカな、重力を感じさせない形態を持つ。これは単に映像を描画あるいは再生するソフト・ハードのスペックの問題ではない(その気になればもっと「人間的」なテクスチャーはまったく可能だろう)。


手塚治虫の漫画キャラがリアルなように、初音ミクは薄くスカスカなモデリングだからこそ「リアリティ」を持つ。これはもちろん、ミクの歌声にも言えることで、あれが殆ど人の声と聞き分けられない質であれば、ミクはあそこまでの「リアリティ」を(言い換えれば「キャラ」を)持つことが出来なかった筈だ(だから、今後どんどんテクノロジーが進化していっても、ヴォーカロイドという商品はその方向性、つまり音素として「声優」という虚構性の強いマテリアルを使うというコンセプトを手放すことはありえないだろう)。いとくとらさんは、良い機材と環境でプレイすることで、そのようなリアリティ、あるいはキャラを、ある種の一般性と交換している。この交換してゆく速度、というのがとても大事だと思う。いわば、ニコニコ的なリアリティをより大きな、あるいはもっとニュートラルな「タレント」としてゆくには、急激すぎてはいけないし遅すぎてもいけない。このギアチェンジに関して、いとくとらさんはとてもセンスがいいと思う。


イメージにおけるフォームは、メディウムによって規定される。古典的な彫刻であれば教会に置かれた大理石、あるいは美術館におかれたブロンズ鋳造というメディウムがそのフォームを規定してゆく。いとくとらさんのフォームを規定していたのはいとくとらさんの身体それだけではなく、簡易なカメラと自宅の一室を媒介(media)にした、複数の要素の関係性で、たとえばニコニコのイベントでのいとくとらさんのステージが「一般的」に見えたのは、いとくとらさんを関係づける諸要素が一般的になったからで、ここでいとくとらさんのフォームもまた一般化するだろう。実際、同じニコニコ動画にアップされている動画でも、良い機材で撮られたいとくとらさんには、ごく普通に「質量」がある。しかし、なら自分撮りしてニコニコにアップしさえすれば誰でも初音ミク的フォームが獲得できるのかといえばそんなことはない。少しもったいない。