うらわ美術館で「再発見!クレパス画―身近な画材の可能性」という展覧会を見て来て、展示そのものは正直それほど刺激的とも言えない内容だったのだけど、会場の最後にどーん、と設置された来場者のクレパス作品の展示がびっくりするほど良くて、もはやこの展覧会の記憶としてはこの箇所ばっかりになってしまいそうだ。笠間日動美術館とサクラアートミュージアムの所蔵品を中心に構成された展覧会は、まぁ良くも悪くも普通に保守的なもので、たんたんと額に入れられた作品が壁面に入れられ、最後にはやや照明を落とした場所で武内鶴之助の作品があったのだけど、その展示室が終わって、行き止まりを曲がったところに、突然明かりが普通に明るい場所があって、その壁面にだーっと画用紙のクレパス画が、たくさん張られていた。もう、墓場から一気に草原に出て来たみたいな活気がその「素人のお絵描き」の展示にはあって、この展覧会はほとんどこの、お客さんにお絵描きさせるためだけに機能してるんじゃないかと思った。


かなり広く取られた来場者向けの部屋にはテーブルがいくつか置かれて、そこにクレパスと画用紙、爪楊枝、へら、それにウエットティッシュが置かれていた。私が行ったときは女の子2人とその両親らしいひと、あとやや年配の女性がわりと熱中して絵を描いていた。私は基本的に、こういう「素人のお絵描き」に興味がない。技術的でない絵に関心がないからだ。ここで言う技術とは、もちろん単なる描写テクニックの話ではなく(別に描写テクニックがあったっていいけど)、画面内の要素がなんらかの意味で分節され組み合わされている、その組み合わせの形態の有無になる。で、ここの来場者の、展示されている作品は、かなりの程度この技術があるように見えた。選別はされていないようなのだけど、私にはどうしても一定のふるいがかけられているようにしかみえない。整然とした、神経の行き届いた展示がいいのだろうか。説明を読むと、この展示もまた来場者が自分でやっているようなのだが。ワークショップとかあったのだろうか(そう考えないと不自然なくらいだ)。


こんな事態にはある程度説明が可能かもしれない。クレパスという画材の特性として、非常に扱いが簡単だということがある。乾燥が不用なので、自分の描いた物に対してすぐに反応ができ、時間をおかなくて良い(ひらめきがそのまま定着できる)。混色はかなり意図して行わないといけないので彩度が落ちない。また色彩は基本的に必ず分割される(不用意に混ざらない)。つまり、一度描き手がノッてしまえば、画面が混濁せずにどんどんと各色彩が構成されていく。おもちゃのブロックであれば、別に彫刻家でなくても、素人でもかなりビビッドな立体ができるのと同じだ(だからブロックは立体のクレパスだ)。以前も書いたけど、クレパスには「失敗」がない(id:eyck:20040517)から、子供も大人も、かなり気持ちよく、「失敗しないかな」という自意識のようなものを捨ててとりかかることができる。音楽や踊りと違って、描画材で何か描く(それが字でもいい。あれだって「線」の構築だ)経験というのは大抵の人が備蓄している。


でもやっぱり、この場所はかなりの程度成功している方だろう(たいていこの手の試みは汚らしいとっ散らかり方をして終わる)。理由は分からないが、張られている絵のかなりの割合に熱量が(つまり来場者のノリと発想と集中が)きちんと定着している。で、ここからは展示のマジックだが、そういう、一定水準を超えた作品が閾値を越えて存在すると、いまいち乗り切れなかった、ふらっと線を数本描いて投げ出されたような(幼児とかはある程度そうなるだろう)作品すら、余白の白の生かされた絵として機能してしまう。この美術館はローカルな美術館で、ここで行われるクレパス画の展覧会に来る人、という段階である程度来場者の粒が揃えられている可能性があるけれど、それにしても展覧会本体が明白に喰われているというのも、ちょっと珍しいのではないか。


「プロ」のクレパス画の多くがつまらないのは、ごく端的に言えば「絵画というフレーム」に内属して、その中でしか「技術」を発揮していないからだ。これは発想が逆で、「技術」の構築の後にフェノメナルな絵画が現出してこなければいけなくて(つまりここでの「技術」とは、実は描く前には存在せず、描きながらその萌芽が発生して、描きおえてから「技術」として定位されるしかない)、なぜか今のうらわ美術館では来場した人の方にこのような「芸術の契機」が多く含まれている。端的に「プロ」がネガティブな意味、つまり職業職人としてしか稼働していない−そういう意味では言い方を変えれば「職人」によるクラフトの展示になっている。こういう、職人の群れの中で来場者の“素人爆発”に拮抗しえていたのは中村研一「いがぐり」、梅原龍三郎「人物」、熊谷守一「裸婦」他数点しかない。梅原龍三郎のは弱いんだけど、そのほとんど長電話のてすさびに描いたような落書きのおかげでクラフトの退屈さから逃げられている。


素人素人、と繰り返してきたけれども、私が行った時に一人で描いていた高齢の女性は、椅子に座らず、立って、向かいの席で熱中している女の子の後ろ姿をがっつり描きこんでいて、これが明らかに素人のものではなくて、しかしかといって悪い意味での工芸にも収めず、半ばモチーフの女の子の熱中に一体化して素晴らしい描画をしていた。けっこうこういう手だれみたいな人が、クレパスという画材や会場に同席した子供に触発されてオーバードライブした作品も紛れ込んでいたのかもしれない。私も「お絵描き」して帰ってきた。楽しかったけど、なんとなくあの高齢の女性にもそのモチーフの女の子にもかなわなかった気がした(それでも気持ち良かった)。会場の説明で、クレバスは「お絵描き」に収まるものではない、みたいな文言があったけど、そんな留保は不用じゃないかと思った。