・頼まれて、ある文章を書くことになっているのだけど、まったく何の準備もしていなかった。そうこうしているうちに、その文章のきっかけとなるような出来事があって、ああ、これなら書いてみたいな、と思って、しかしそのモチーフについては以前このblogでも書いたことがあって、さて同じことの繰り返しにならないようにするにはどうしたらいいんだろう、と考えあぐねていたら、だんだんそのこととは無関係に読んでいる本とか、見ている展覧会とか、描いている絵とか、そういうものから糸口というか、ヒントというか、こういうものが書けたらいいんじゃないか、という材料が与えられてきて、ようやく構想みたいなものが出来つつあるけどまだぜんぜん書き終えていない。


・だからまだ何も掴んでいないし成果みたいな物はゼロなのだけど、一つだけ了解できたのは、私がblogを書いていることって、いわゆる文章を書くこと全体の訓練には必ずしもなっていなくて、それはただひたすら「blogを書く」ことの訓練にしかなっていないのだ、ということなのだけど、どうしてそういう事を思うのかといえば、こんなふうに数ヶ月も「書く事」という自分に対する要請を抱え続けているというのは怖い事で、そこには効率とかはありえなくて、日々生活しているいろんな出来事がその「書く事の要請」と何らかの繋がりを持ちそうになる。


・食べるごはんの味や触感の中に「書く事」の契機が隠れているかもしれないし、今日結局眠ってしまうことがその「書く事」の契機を決定的に逃してしまうかもしれない。その日一日をそのように暮らし、そのように終えることは、必ずしもめちゃくちゃに大変ということはないのだけど、どこかに屈折というかわだかまりのようなものを溜め込んでいくような感覚があって、これには独特の「重さ」が含まれていて、しかもそのような「重さ」がなければ成立しない構想とかモチベーションというものが存在する、のだと思う。


・作家とか、研究者とかって、つくづく毎日「書く事のプレッシャー」を受けながら書いているのだろうなぁ、という想像だけはできたかもしれない。しかもそういうプレッシャー自体が、このエントリみたいにネタになるような事はありえなくて(特殊な文体とか位置とかを獲得した人でないと成り立たないだろう)、出来上がった文章は、そういったプレッシャーが背景にしかなくて、あくまで前面は文章の密度としてしか見えていないもので、そこに「書く事のプレッシャー」を感じさせてしまったらきっと、それを理解できる、同様の環境にいるような人たちから、結構ネガティブな評価しか受けなかったりするんだろう。


・それって、きっと、凄いことなんだろうなと思う。そのように鍛錬された精神からしか産まれない文体というものがあるんだろうと思う。そして、そういう文体は必ずしもポピュラリティを獲得し易いとはいえなくて(だって一番「流通」しやすい言語はそれこそblogとかのものだったりするわけだ)、一握りの、限られた範囲でしか伝播しなくて、そのほとんどが特に大きな反応もなく、ひっそりと消えていくんだと思う。私はblog1本を書くのに費やす時間より、書き始めるまでにかかる時間の方が遥かに長いけど、それでもそのスパンは1週間とかで、その程度でその「要請」(と言えるかどうか)からは解放されてしまうが、そういうスパンで書かれた文章というのが、実は適度に口当たりよくて、読み易いものだったりするのかもしれない。


・それがいいとか悪いとかではなくて、ただ、そういう、blogと異なる「質」の文章というものがあり、それは執筆にかけられた時間というよりは書かれるまでに堆積された時間の圧力によって形成されたもので、こういうものは、確かに幅広く流通せず、狭い範囲でしか読まれないのかもしれないけど、しかし、そのような硬質さという形でしか残せないものがあると思う。様々なツールやメディアが開発され、その結果今まで見えてこなかった思考が見えるようになるのは素晴らしいことで、実際私もその恩恵を受けているけれども、しかし、どういう状況になっても、上記のような「硬質さ」を持った書き手はいなくならないし、最終的にきちんとそのような評価を受けるのではないだろうか。


・様々な新しいツールや技術を目にするごとに私が感じるのは、なんだかんだ言ったって本物は凄いな、ということで、それは別に既存の出版形態を守るべきだ、という話ではなくて、むしろそういう革新が、もろに「書く思考の硬質さ」を露呈させていくだろうということで(だから淘汰されるのは、既存のシステムの中でヤワに食べてきた人たちだろう)、私のような、blogばかり書いてきた人間とそうでない思考を積層させてきた人が並列されることで、はっきりしてしまう何事かがあると思う。そして、もし守るべきものがあるとすれば、そういう硬質さを持った人々へのリスペクトの表現だと思う。