キューブリックの「2001年宇宙の旅」は、今見てもやっぱりクオリティが高い映画で、ついつい眺めてしまう。日本語字幕なしで、英語だけで見ていてもほとんど困らない映画で、それだけでも凄いな、と思うのだけど(「博士の異常な愛情」とかだとやっぱりセリフが知りたくなる)、しかし、ではこの映画に「物語」がないとは言えないのだと思う。つまり、映像の物語、というものが濃厚に、緻密につくりあげられている映画で、だとするなら、私はこの映画を素晴らしい、と思いつつ、ちょっとこれを「映画としてとても好きだ」とは言いたくない気持ちになる。


こんなことを今更言ってもアレなんだけど、「2001年宇宙の旅」の映像は暗喩に満ちていて、それは主に同じ形態、あるいは同じ運動の並列、反復によって表現される。猿がモノリスの介在で知性を芽生えさせる荒野と、高度なテクノロジーを獲得した人類が改めてモノリスに出会う月面がやはり荒野として反復させられている事、そういう「荒野」で「貧しい」食事を取ること(猿は草や泥水、人は宇宙食)、あるいは画面内での「円」の反復。またこの映画で「知性」は「飛ぶ事」で表現されるのだけど、それはいまや伝説となった宙を舞う骨・宇宙船・宇宙ステーションから、最後のボーマンの、モノリスに導かれての旅(スターチャイルドで終わる)まで貫かれていて、要するに映画の開始から最後まで延々このような、隙のない、物語として構築された映像で充填されていて、息が抜けない。結果、この映画は、確かに「暗示的な演出」はあるのだけど、映像としての謎は皆無で、それは全て設計され計算され、意図していないものは一切写っていない。


これは1968年に撮られた実写映画としては希有なことだろう。「2001年宇宙の旅」において実は全ては明示されている。例え台詞、あるいは脚本でいかに説明が省かれていようと、この映画で引き起こされる全ての出来事には意味と根拠があり、必然性があり、それは別に製作の裏話やクラークの原作を読まなくても、キューブリックの映像をしつこく見て行けば把握できる筈の事だ。モノリスを通して描かれる知性には意志があり、目的があり、全てはその1点から発生し理解される。冒頭の、一直線に並んだ天体の示す1点透視図法の構造こそこの映画の構造であり、あのシーンに全てが象徴されている。サスペンス映画の文法として、妙に視点を遮ったりチラみせさせているように思えて、この映画の「視点」は一つだけだ。


反対に、スピルバーグの「未知との遭遇」は、一見分かり易い展開と台詞がサービスされているように見えて、その実極めてめちゃくちゃで説明ができない、荒唐無稽な映画だろう。だいたい、あの映画の「宇宙人」の目的がまったくわからない。この、映画の主題を支える筈の目的の不在は恐るべきものだ(子供の社会科見学にでも来たのだろうか?)。「宇宙人」はまったく無意味に世界中に自分の到来を予感させ(チベット仏教徒から幼児にまで!)、これまた無意味にやたらと人間を誘拐して(しかも凄く派手かつ誰にも「おかしい」と思わせるやり方で)、冗談みたいなコミュニケーションを演出して、出し惜しみしているんだかいないんだかわからないマザーシップをどどん、と繰り出す。あのマザーシップの、デコトラみたいな派手な装飾こそ謎だ。画面内にも、まったく意図のわからないものが写りすぎている。エンタープライズ号やR2D2が出てくるのなどは分かり易い。クライマックスのコンタクトするシークエンス、デビルスタワー上の“パーティー会場”のシーンで、卓上スタンドみたいな小さなパラボラアンテナが複数一列に並んでくるくる回っているところ等はギャグかと思える(本当にギャグかもしれない)。


視点においても、リチャード・ドレイファスが一応の運び役として設定されているが、しかし作品内で彼はまったく盲目であり、時間帯によってどんどん目(カメラ)の持ち手が変わっていく。ある時はメリンダ・ディロンであり、トリュフォーであり、少年(ケイリー・グッフィ)でもある。作品世界を専制的に支配する筈の「宇宙人」があまりに能天気、というかほとんど「馬鹿」なので(もう少し穏当に言えば「子供」なので)、彼等は作品を貫徹する統一視点になりようがない。最後にリチャード・ドレイファスを「連れて行く」ことがまるで目的であるかのように見えるが、しかしそれまでの無駄に派手な行動のほうがボリュームが大きすぎて、そのような「目的」は破綻している(むしろ、あの最後のシーンはつけたしにしかみえない)。そして、私は、好き嫌いで言えばスピルバーグの「未知との遭遇」の方が断然好きなのだ。


完成度とか、クオリティとかいう話なら、それはやはりキューブリックに軍配が上がるのかもしれないけれども、こと快楽性ということならば、それはぜんぜんスピルバーグのものなのではないだろうか。この映画で、暗示や暗喩はまったく薄っぺらく、これ見よがしで、意味がなく、単に楽しい遊び以外のなにものでもない。そこには「物語」の重さ、深さがまったくなく、遊戯性のおかしみだけが充溢していて(ぶっちゃけあのマザーシップは人類を通りすがりにからかっただけだろう)、見るものは映画に「支配」されず、映画と一緒に遊ぶことになる。もっとも、スピルバーグという作家は楽しいだけの人ではない。それは例えば「シンドラーのリスト」のような「社会派」の映画も撮るからだ、という意味ではない。時折まったく奇妙な映画、例えば「太陽の帝国」のような作品を作るからなのだけど、しかし「未知との遭遇」は、そういった奇妙さが陽性の方向を向いている。