なびす画廊で松浦寿夫展。最も優れていたと思えたのは会場に入って正面に展示されていたF150号の作品で、これは出品作中最大のものだ。キャンバスにアクリル絵の具で描かれている。薄く溶かれた青、紫、緑、といった色彩が相互に重なり合いながら刷毛状の筆で配置される。全体に画面の向かって左上に色面が密集し、画面右下にはキャンバスの地が比較的広く露出している。他にも、色面相互の合間にキャンバスの地は見えている。部分的に濃く不透明な絵の具も置かれていく。この濃い絵の具層は薄いベール状の他の部分に対し位相を異にしている。いわば視覚上の焦点を形成している。最も大きい塊が左上の色面密集部に置かれ、より小さい単位が右下の色面のまばらになったところに3箇所ほど離れて置かれる。また、大きな塊の下、画面左下にも縦に小さく不透明なタッチがある。タッチは複雑な逡巡を見せながら、しかし大まかには垂直と水平に運動し、画面内部にグリッド状の秩序を作る。絵の具の表面は、樹脂状の光沢を見せており、なんらかのメディウムの混入が推測される。


こういった作品構造は他の出品作とおおよそ一致している。ではなぜ質的判断に差が出るのか。その根拠を観客(私)の主観から一度切り離して考えることは可能だろうか。形式的に異なるのはキャンパスサイズの差異、縦構図か横構図か(大型作品は横構図、バックヤードにも展示されていた小型作品は縦構図)、色面配置の差異等が上げられるが、おそらく150号の作品に見られる最大の特徴は、その大きさに加えて、刷毛のタッチがフレームの外延まで届いている箇所が多い点にあるように思える。3点ほどあったF100号の作品、および2点あったそれより小さい作品(80号くらいだろうか?)は、部分的にタッチがフレームに触れるものがあるものの、比較的要素が画面中央に集まり周囲に余白(キャンバスの地)が囲むようにある。150号の作品は要素が左上に偏っており、そこから作品空間が展開される。結果、ここでの絵画空間はフレームの外にまで広がっているような印象を与えるのだ。


ごく簡単に言えば、150号の作品では作品の知覚的フレームが物理的キャンバスとはズレた地点で展開しているのに対し、それ以外の作品では作品の知覚的フレームと物理的フレームが一致している。ここで、松浦氏が最近絵の具層を薄くして扱っていることのマテリアル上の効果が作品の質的差異に大きく関係していることがわかる。私は昨年の松浦氏の個展に際し、一番成果を上げていた点とは、絵画が描かれることによって(知覚上の)キャンバスもまた立ち現れる事だと書いた(参考:id:eyck:20090120)。しかしその上で、そこでは絵の具のマテリアルに対する感覚がとりこぼされてはいないか、とも書いたのだけれど、その後のTOKYO ART MUSEUMでの展覧会では、絵の具が薄く溶かれたことで、このマテリアルの問題が解決されつつ「強さ」という面ではやや後退したと感じた(参考:id:eyck:20090507)。今回の出品作についても、技法的にはTOKYO ART MUSEUMの展示作品を踏襲していると思えるが、その結果、タッチの強度単独で作品の自律的フレームを構築することはなく、その配置や運動によって絵画空間が形成される。


言い方を変えれば、F150号以外の作品で絵画空間はリテラルなキャンバスの矩形に“押されてしまう”のに対し、それがズレたものにおいて、初めて知覚の上で、キャンバスから切り離された独立のフレームを仮構しえたのではないか。それと、私はTOKYO ART MUSEUMでの展示に関し「ステイン」という言葉を使ったのだけれども、今回の展示作品では、薄い絵の具層は画布に染み込んではいない。冒頭のパラグラフに書いた通り、薄くされたアクリル絵の具には何らかのメディウムが添加されており、絵の具は半透明に引き延ばされながら、あくまで画布に「乗っている」。いわゆるフランケンサーラー的、あるいはモーリス・ルイス的なステイン、画布と絵の具/色彩が一体になるような構造は持っておらず画布と絵の具は個別の層を形成している。このことは松浦氏の作品構造の骨格に関わる事だろう。TOKYO ART MUSEUMでの時の作品が、果たして厳密に「ステイン」だったかどうかは、今は確認できないが、もしステインでなかったのなら記述上のエラーである。


松浦寿夫