アップフィールドギャラリーでの写真のグループ展「ながめる まなざす Division-3」まで南條敏之氏の作品を見に行った。展示されていたのは縦に長い大型の作品2点と縦構図ではあるものの小型の作品2点だった。いずれも額装されていない。大型の作品は細かな凹凸のある表面の、樹脂状のプレートであり、小型の作品はフラットなアクリル状のプレートになっている。大型の作品は黒い全体の中に光の軌跡のような、ひも状の線や点がゆるい塊を形成する。その光をよく見ると、植物に遮られたようなシルエットが感知できる。小型の作品は、強いコントラストながら、はっきりと沼あるいは池のような水面が写っている。水が覆いきれていない草のような凹凸とそこに反射する日光の関係が作る光のつぶつぶが捉えられている。大型の作品がモノクロームであるように見えるのに対し、小型の作品は青みのある色彩が見てとれる。


一見、大型の作品はマットな黒の中に白い光があるだけであり平面に還元されているように見える。そこにある線の軌跡が、水面の上に写った日光の揺らめきを一定の時間かけて追ったものである、という情報は与えられず(キャプションがない)、抽象度の高い画面になっている。対して、小型の作品は明らかに川縁のような具体的な空間を撮影したものと理解でき、手前から奥にかけての奥行きが、そこに光る光の基底としてある。しかし、大型の作品の光の線が遮られ、シルエット状に植物のようなものを切り出している事に気づくと、この大型の作品は小型のものとは異なった空間を立ち上げる。すなわち、たゆたう光の軌跡を仲立ちにして、そこから切り出された、明確な輪郭を持った植物と、光を反射する水といった空間。


ここで、例えば順序として、まず水面があり、そこに光が写り、その手前に植物が在る、といふうな秩序の形成は事後的な捏造になるだろう。最も「飛び出して」いるのは白い光の軌跡であり、そこから切り出された「何か」のシルエットは陥没していて、それが植物であると理解されたとたん光は水面が反射した日光としてたち現れる。手前-奥、といった空間把握はここでは成りたたない。


このような空間認識の複雑さに対し、小型の作品の、いわば自然な構造は、しかしその自然さを形成する様々な写り込みにともなって、大型の作品にはない豊かさをたたえている。すなわち流れず溜りにある水が太陽を受けている暖かさ(冷ややかさ)であり、ぷつぷつと光を分化する水辺の様々な植物や石などの存在感であり、晴れた日の日中の水辺にあるのであろう風や音の気配だ。小型の作品には作品の外にある様々な事象の徴候が満ちている。比較して言えば大型の作品は「貧しい」。


しかし、そのような判断をする前に一度立ち止まろう。写真が、その言葉のとおり対象と連続した「真」のイメージである、という確信はどのように確保されるのか。いまやそのような確保は原理的にできない。現在のデジタル技術は外的な対象がまったく無い場所から迫真的な像を作ることが可能だし、そしてそれは個人で持てる機材で生成できる。「迫真的である」と感じる際に暗に前提されている外的世界は、いわば個々人の日常的な世界観、私が今見ている世界は私の「外」に確かに在る筈の物だ、という経験的思い込みから、いわばそれらに「似ている」という類推によって導き出されている。しかし、「似ている」という有り様は、既に写真が対象から切り離されていることを示す。


写真における「世界」の存在は恐らく、倫理上の操作不可能性にだけ受胎する。前述のように、技術的に写真はいまや全面的に操作可能だ。しかし、人は印画紙に、あるいはCCDの画素に刻まれてしまった情報を、ある恐怖と共に未だに受け止めている。全てが介入可能であるかの様に見えて、そのような介入する自己よりも、圧倒的に巨大である「外部」が、何の保証も証明もできないにもかかわらず(あるいはそれ故に)定着されてしまうという恐れ。この怖さに、おもわず手が、足がすくんでしまう、そのためらいにだけ写/真という語はそっと降り立つように思える。


例えば、今回取り上げた大型の作品は、その画面が作り出す空間の有り様まで含めて、かなりの程度自律的に見える。しかし、ではこれが、なお作家の全面的な操作(オペレート)に基づいているかと言えばそうではないように思う。そのような操作の前提として、この作品には「光」の外在性への驚きがある。いわば南條敏之氏は光を扱っているのではなく、光に要請されて撮影しているように感じられる。


●ながめる まなざす Division-3