アニメの「荒川アンダー ザ ブリッジ」をまとめて見た。今時、こんな作品が深夜アニメとして成立することに驚いた。ごくごく緩いギャグアニメであり(緩い、というのは大して笑えない、という意味でもある)、とりたてて「萌え」るような要素もなく、世界観や手法が新しいわけでもなく、やたらと作画が美麗なわけでもなく、はっきり言って「何が面白いのかわからない」という人が大半なのではないかと思ったのだけど、そう思いながら私は全13話を見てしまったのだ。簡単に言えば荒川河川敷に住み着いた奇人達のコミュニティを疑似家族的に描いた作品だ。この作品の中核にあるのはギャグでもキャラでもなく、周辺的な場にかりそめに成り立つ親密さのようなもので、個々のネタは、このような親密さを維持醸成するためだけにあり、登場するキャラクター相互の肯定が繰り返されて行くために存在する。


いかにも「変人」な人同士が、その「変人」であることを反復して表明してはそれが緩く許されて行く、その許しが重要なのであって、笑えるか笑えないかは二次的な事だ。こういった作品を、例えば今の社会の「住み難さ」「生きにくさ」の反照として見る事は一定の妥当性があると思うし、実際そういう側面はあるだろう。様々な「成果」や「能力」の持続的な提出を求められ、そこからの承認がなければまともな居場所すら確保できない環境において、「荒川アンダー ザ ブリッジ」のような作品が受容され需要されるのはいわば分かり易い事ではある。ここでは「荒川アンダー ザ ブリッジ」が“面白すぎない”ことはとても重要なファクターなのだ。面白い=効果的で強い意味での成果が表現されていたら、「荒川アンダー ザ ブリッジ」という作品の存在が切り開く「場」の許容度が狭くなってしまう。面白くないギャグ作品が、しかしその面白くなさにおいてある包容力を展開する。


この作品に奇妙なリアリティを確保させているのは、荒川河川敷という、実在するとても不思議で魅力的な広がりをもった「空間」の有り様だと思う。埼玉県南から東京都内を通って東京湾へ注ぐ荒川という河川は、とりたてて「美しい」川でもなんでもない。ただ、その幅広い堤防の内側の緑地は、首都圏の過密さの中でほとんど虚を付くような休符のような広大さを持っていて、その広大さには、洪水の防止という意味だけでは覆いきれない「楽さ」があるように思う。ここは実際に一定数のホームレスの人々が生活を営む。私が葛飾四ツ木に住んでいたころ、すぐそばの荒川河川敷には「0円ハウス」が点在していた。私がよく覚えているのは意外なほど立派な「0円ハウス」に、白木のテーブルと椅子が置かれた「庭」があったことで、その住人の住まい方はとても印象的だった(つまり、そこにはある種のスタイルがあった)。このようなスタイルが成り立つには、それが東京のような「都市」であることと、なおかつ過密さから遠く離れた「広さ」があることが不可欠で、こういった条件が揃うのには河川敷しかありえない。


荒川アンダー ザ ブリッジ」はその出発点に限定された具体的な舞台を置いた事で作品自体を成立させている。というより、ほとんど荒川河川敷それ自体が主人公みたいな作品だ。そして、そこに、いわゆる「萌え」から切り離されたキャラを置いていることも、とても作品を楽にしていると思う。例えば「ストライクウィッチーズ」のような、本当に「萌え」に特化し純化した作品は、そのような純粋さ故に、ある種の攻撃性と排除をもたらすと思える。常に「萌え」のスイッチを押し続け刺激を送り出し続けるサービス供給に疲労を覚える人は一定数いる筈で、だから「けいおん!」のように、基本的に「萌え」をベースにしながら、非常に巧妙にその「萌え」に隙間を作り出す作品こそがボリュームゾーンを作り出すのだと思うが、それにしてもあまりにも洗練がすぎる(京都アニメーションというのはつくづくそういうところがある)作りは、その洗練自体が閉塞を産むだろう。もはや日本のアニメの「現代美術化」は逃げようがない=だから現代美術がアニメを導入しても差異化が“内容”においては形成できない(文脈においてはいまだにそれを新しい、と受け止める人がいるのでもうしばらく焼き畑農業的に可能かもしれないけれど)。


荒川アンダー ザ ブリッジ」の主人公が二枚目でお金持ちでモテキャラだ、という設定は、もちろん中村光という原作者のファンタジーから産まれたものだと思うけれども、それにしてもこのような主人公が、天然な「不思議ちゃん」である女性に救われていく、という構造は古典的だ。こういう女性性のエゴが産み出す疑似家族の物語が、しかし青年コミック誌において受容されていくというのは、高橋留美子めぞん一刻」を彷彿とさせるけれども(参考:id:eyck:20060609)、しかしこれが深夜のアニメーションとしても上手くいっている(と私は思う)のは、「化物語」を作った新房昭之+シャフトの懐の深さを示していると思う(ダンス イン ザ ヴァンパイアバンドはつくづく空振り三振だった)。漫画において疑似家族の形成とそれによる救済、というテーマが隆盛したのは80年代だったのだけど、今それがこのようにストレートに回帰しているのはとても意外におもう。今「萌え」の文脈では、単純に家族は切り離されている事が多い。原作も読んでみたい。