高橋悠治コレクション・バッハクラヴィーア協奏曲集のライナーノートが刺激的だ。以下の引用箇所は、演奏家として楽譜に対する姿勢を書いたものだが、これはその中核において、画家が先行した優れた絵画を見るときの姿勢に通じると思う。

バッハの楽譜は完全ではない。だれの楽譜でもそうだが、楽譜だけによってなにかをつたえるのはまず不可能だ。音符のあいだの関係はかかれているが、連続性はかかれない。音符と音符の関係は、連続性を実現するための枠なのだ。それぞれの音符はある質をもち、次の音符では別な質に達する。質はかかれていないから、推測しなければならない。かかれた部分は、家をたてるときの足場のようなもので、しごとがすんだら、もういらない。もちろん「足場」なしに、この点に到達することはできないが、一度そこに達したら楽譜に正確にしたがうことは、もうたいせつではない。作曲家の意図もまた足場であり、それもすてることができる。のこるものはことばであらわすことができない。だからやるよりほかはない。


もちろん絵画は、音楽において作曲家の残した楽譜よりも積極的な存在だ。鳴る音を示した記号ではなく、鳴った音そのものかもしれない。しかし、言うまでもなくその「鳴り方」は、聞くひと(見る人)の内部においてしか確認できない。これは、例えば文脈や受容される社会的背景に作品が依存してしまう、という話とは異なる。絵画がいかにその自立性を高め、観客のありようと切り離されていようとしても、というかそのように突き詰めれば突き詰めるほど、作品の自律した現象のありようは、個々の人を通じてしかありえないことが露呈してしまう。このとき、作品の「鳴り方」は、ある揺らぎをもち、個々の人の中で再構成されており、これはいわば作品が個々の人の中で「演奏されている」ような状態なのではないか。作品を見る人は、それだけで既に皆演奏者なのだ。そして画家とはまず絵を見る人であり、その見た記憶から新たな作品を形成する。


いうまでもなく、この「演奏者」が、つまり作品を見る人が、恣意的に、「自己の意図」によって作品を自らの中で好き勝手に解釈できるわけではない。

バッハの一番単純な音階もたくさんの声部をひとつにまとめ、あらゆる音が構造の中で独自の位置と意味をもつ。あらゆる音がちがうひびきをもたなければ、全体はつまらないものになるだろう。音はそれぞれにちがうはたらきと質をもつから、粒をそろえずにひくべきだ。これは、粒のそろった、はやいひき方ができることに集中し、音の質をかえりみないふつうの場合とはちがう技術を要求する。


アナロジーとして、一般に理解されるのは演奏それ自体と聴衆の関係こそ絵画とその鑑賞者の関係の共通項だろう。しかし、決定的に異なるのは両者の時間との係わり合いである。基本的に音と音の関係およびその連続性は一定の時間の経過をその内部に包括する。音楽とは時間の芸術であり、聞き手はその時間を行ったり来たりすることなく、ある方向へ導かれ、その行きかたは一度過ぎてしまえば原理的には戻らない(ライブにおいては明確にそうだし、音源の再生にしても「その時間」は常に一回きりのものである)。対する絵画は、原則的に時間をその外部に持つ。あるいは時間の流れを外部に置く。作品は一度展示されてしまえば常にランダムアクセス可能であり、その部分と部分の関係はありとあらゆる注目のあり方に晒され、何度も反復して体験可能であり、検討することができる。これは明らかに「聴く」ことと「見る」こと、すなわち知覚形式の差異に基づくもので、作者と消費者という流通形式の同位性・差異性に先立つものだ。だから、音楽と絵画の関係は、その知覚の形式の共通点、すなわち絵画を・楽譜を「見る」場面でシンクロするだろう。もちろん高橋悠治はこの、音楽という形式に対する愛に基づいてこの文章を書いている。その愛こそが、やはり絵画を見、また描くものに共鳴を引き起こす。以下引用を続ける。

あらゆる演奏は編曲だが、抽象構造に色をつけるということではない。元のものは存在しない。バッハが自分で演奏したしたものは、かれのやり方にすぎない。音色はひじょうにたいせつだ。それは楽器と演奏者によるから、もちょろん正確な意味ではなく、ここで音色というのはさまざまな音の質のことで、それらの間の関係をそのままにすることが必要だが、特定の結果は問題ではないということなのだ。演奏はなりゆきであり、完成品のくりかえしや解釈ではない。演奏するとき、まずすることはきこうとし、自由なあそびをひきおこすことだ。演奏は西洋流にいえば即興のようになる。その場でその時におこらなけらばならないのだから。演奏者は、バッハが作曲するのと同じ態度で演奏する。おこっていることに注意をはらい、しかも劇的効果のために音のうごきをコントロールしてはならない。これは自己表現をあらかじめ削除する。それは作曲家・演奏者・きき手がひとつのものである完全に統合された音楽的状況にたいへん近づく。演奏することはききとることなのだ。


ここで「自由なあそびをひきおこすことだ」「演奏は西洋流にいえば即興のようになる」という言葉があることに注意すべきだ。それは決して受けての恣意的な「自己表現」を許すものではない。むしろそれらを「削除」するものなのだ。「演奏者は、バッハが作曲するのと同じ態度で演奏する」。これが恣意性からいかに遠く離れた態度かは誤解しようがない。ピカソを見るとき、人はピカソがその絵を描いたように見ることが最高の経験になる。しかも、その状態は音楽のように演奏者を媒介しない。というかあなたが演奏者なのだ。ピカソの絵を、ピカソが描いたように演奏することは、鑑賞者の仕事になる。ピカソその人、というよりは、その絵を描いていたピカソの「その」精神の運動をあなたの中に再起動させること。《演奏することはききとることなのだ。》