時間が経ってしまったが埼玉県立近代美術館で「零のゼロ 2010」展を見て来た。大分で活動しつつも、参加している作家は関東他全国に広がりを見せているグループの展覧会のようだ。会場に細長く設置された金属のフレームに木材で作られた四角い筒状の物が載せられていたものは森貴也氏の作品で、長い筒状の作品は一方の端から空洞の内部の向こう側の開口部が覗き見える。極端に引き延ばされた棺のようでもあるが、むしろこの作品から感じられるのは「観測」のアナロジーだ。一般に立体、あるいは彫刻というのはいかに抽象化されていても人体との比類関係をもたらしやすいけれども、ここで森氏の作品は、一度人体から離れつつ、その離れ方の所作において改めて人体に接合している。森氏の作品は、明らかに個々のパーツの集合としてある。有機的な全体性ではなく、切り離された異質な部分が強い力で接合・縫合され、特殊な装置のようでもある。しかし、そのような人工性・無機性においてこそ、森氏においての「人体」が露出しているように思える。ここで人の身体は調和的全体の自然なまとまりではなく、個々にばらばらであり、しかしそれが無理矢理連結され、目的の不合理な観測マシンとして現れる。目玉親父というよりは目玉機械、というべきものかもしれない*1


上田和彦氏は中型、あるいは小型のキャンバスに、ところどころ絵の具の盛り上がりを見せながら多くのストローク、あるいは点状のタッチを載せた絵画作品を出品していた。ストロークの折り重なった作品は、昨年「A-things」での個展のとき(参考:id:eyck:20090703)よりも個々のストロークの長さが細く長く伸びているように思えた。この結果、各ストロークは個別の単独性よりは画面内での相互の関係に比重が置かれているように思えた。それと引き換えに色彩の強さはやや控えられ、全体に彩度が落ちてみえる作品が多くあった。そういう意味では小型のキャンバスに短いタッチで色彩を点在させた作品に画面が単一のキャンバスでありながら色彩相互の差異化によって複雑性が導入される発展性が感じられた。かなりの程度明度の低い(暗い)バックに鮮やかな赤、黄、といった色彩が点在する小型画面はどこかクレー的な宇宙性を獲得している。また、壁面パネルに台を設置しそこに出来たL字形の空間にキャンパスを立てかける展示も、横へと連続しながら個々の作品の独立性を高め、その内部にそれぞれの絵画空間を内包する効果を上げている。埼玉県立近代美術館一般展示室の、展示壁面の細かい穴が最もマイナスに影響してしまった出品作家であることは不幸だったかもしれないが(小型の点描作品を置くには考えられる限り最高に向かない壁面といえるだろう)、この展示方法によって幾分かはその悪影響が減衰していたと思える。


北村直登氏の作品は壁面の広くに動物のドローイングが展示され、その壁面の下に、雑誌そのほかの印刷物を切り抜いて折りこんだ動物のミニチュアが多数置かれている。この作家の魅力はその「線」描の質の軽快さにある。この「線」は、多数のドローイングが主に線描で形成されている(一見色面に見える箇所も、ぐりぐりと線を重ねた結果できたものだ)ことはもちろん、立体作品である折り紙の動物の作品においても主要な要素だと感じられる。ぱっと見た感じでは、この折り紙動物は巧妙に折られた紙の「面」によって構造になっているのだが、しかしその立体が「どうぶつ」であることを示すのは、シャープにカットされた輪郭の線の力であることが即座に理解できる。このミニチュアにおいて、面構造はあくまでそれがミニチュアとなるための基底材だ。事実、馬あるいはらくだといった個々の動物の「個性」は全て鮮やかに切り取られた輪郭線によって与えられる(対して面構造は、どのミニチュアもおおよそ同じで差がない)。ドローイングの色彩は率直に言って感覚的で構築性といえるものは見られない。だからそれは絵画というよりはイラストレーションにみえる。端的に言えば、それらはオフセットの印刷物になったときにこそ最大限の効果を発揮するように感じられるが(この作家はその奔放な色彩感覚を主に印刷物や映像作品から得ているだろう)、しかし、その枠組みのゆるさが、北村直登氏の線の自由性、どこまでも線をひいていけそうな開放感につながっているのではないか。


菅章太氏は映像作品を展示していた。面白い・面白くないでいえばダントツに「面白い」作品で、例えばアニメ「まんが日本昔ばなし」のエンディング映像の、子供や動物が夕焼けの草原の地平線を歩くシルエットの動画をその部分だけ切り取って延々とループ再生したり(音楽はかからない)、「サザエさん」の、磯野家の窓に映るキャラクターたちのシルエットを、やはり音なしで収集して繋げ次々と写したりする(youtubeに上がっていた。http://www.youtube.com/user/sugashota#p/u/9/VxwubvWPCOg)。今のアニメーションの水準から言えばおそろしく素朴な映像の「影」が切り取られ、強迫的にリプレイされることで、これらの映像はある段階から「不気味」なものとなってたちあらわれる。その「不気味」さはどこから発生するのだろうか。簡略化された「人の影」のイメージが何度も何度もつきつけられることで、本来明るく曇りないはずのキャラクターが、音と一緒にその安定的なイメージもはぎとられ、急に「イメージの穴」と化して来る、その瞬間に恐ろしさが染み出してくる。そのおそろしさは、フロイト的というよりはむしろユング的なものではないだろうか。「にんげん」という存在のイメージの共通項が稚拙な像に凝縮することで個別の人称性がはぎとられ、どこか殺人現場の死体の輪郭線、あるいは何者ともしれない不安の仮託された「死の影」に見えてくる。菅章太氏の作品のもたらす不安感はおそらくアニメーションという独特の文化文脈を持ったメディアを超えた力を持っているはずで、海外での反応が知りたくなる。


古谷利裕氏の作品は全て「plants」と題された絵画で、角を挟んだ壁面におおよそ上下二段にわけて設置されていた。基底材は段ボール箱をつぶして平らにしたもの(折り目が画面中に水平に走る)、キャンバス、紙、木製パネルと様々で、先の吉祥寺「百年」における個展「線と色と支持体」とおおよそ共通していると考えられる(参考:id:eyck:20100412)。私はその「百年」の個展について、一部の作品に手の足りなさを感じたのだけれど、今回の展示を見て印象が変わった。この作家は、「少し手数が足りない」状態でこそ、その作品の離散的魅力が明快になるのかもしれない。段ボールにクレヨンで描かれた作品は、「百年」のときよりも明らかに画面内の構成要素が増え、前回見られたコミック的線質はなくなり古典的性格を獲得している。この古典性は作品に明確な構造を与え、求心的構図を作る。つまりそこには「何か、ある一つの出来事が描かれている」という安定した絵画空間になる。だが、この作家が目指しているのはそういった、確かな到達点の確認できる「絵画」とはやや異なった位相にあるのかもしれない。そのことを感じさせたのは段ボールの作品のうちの一つ、画面を走るいくつかの線が作った閉域を水色と白で数箇所塗りこんだ作品で、この作品は個々の形象が他のものより微妙に画面の四辺に離れ、また四方に向かって離れていくベクトルを持っている。要するに最も散漫な構造なのだが、このような散漫さ、つまり絵画空間が「なにか一つのこと」に収斂しない有様こそが、この作家のユニークな資質なのかもしれないと感じた。

*1:この記事に当初「金属の三脚に感光板のような小さな薄い箱が付けられたもの」を作品と誤認した記述がありましたが、これはとある方の撮影機材だったそうです。記事の扱いを少し考えましたが、部分的に修正しこの注記を付して再アッップロードすることにしました。森氏には失礼いたしました。ご指摘くださった方には感謝もうしあげます