ホメオパシーが話題になっている。子供を持つと、周囲にある程度「ホメオパシー」という単語が飛び交うようになるのだけど、最初に明確に言っておくと、私自身は身もふたもなく近代医療をよりどころとしている。配偶者は35才、いわゆる高齢出産といわれる年齢で長男を産んだ。一定のリスクがあるといわれる状況での妊娠・出産だったので、分娩時の異常なども考えればきちんとした産科医の元での出産しか考えなかったし、その後の育児においても予防接種などは配偶者に「積極的に受けよう」と話してコンセンサスを作り、実際定められた接種はすべて受け、一部保険適用外の予防接種も検討した。こと産科医療や育児に限定していえば、がちがちのモダニストと見られてよい立場にいる。幸い家では母子共に健康に生活している。子供は2歳9か月になる。


そういう立場、つまり近代医療に信をおいて母体と共に子供を育てる所から、今行われているホメオパシーへの言説を見ていたのだが、意外にもそれらの「正しい」言葉から少しだけ距離を持ちたくなった。もちろん私は父親一般の立場を代弁できない。世の父親には、例えば今朝の朝日新聞(東京本社版)の一面に載ったホメオパシーへの批判的記事を見て同調するひとも多くいるだろうし、基本的にそれは良いことだとも思う。また、日本学術会議ホメオパシーを「医療現場から排除しなければ深刻な事態に陥ることが懸念される」という談話を発表したことも意義あることと思う。その上で思うのは、そこで使われている「ことば」あるいは「表現」が、どのように今いる妊娠中あるいは乳幼児を育てている女性たちに作用するのかということ、そしてそこで女性たちに寄り添い、共に育児をしている父親たちにどういう意味を持っているのか、ということだ。


父親として私が考えているのは子供の健康と同時にその母体の健康で、この二つはほとんど一体であるかのように見えてもちろん違う。私にとって子供の健康とはまず一義的に生理的、肉体的な水準で、身体機能は平均的にあるか、風邪はひかないか、やれ腸炎だ便の処理は適切にしなきゃ、やれ脂漏性皮膚炎だオリーブオイルはどこだ、蚊に刺された頭ぶつけた膝すりむいた、という日々のごく即物的処置に追われていくことになる。子供の心理や情緒に思いをいたさねば、なんてことはその辺の育児書にも美しく書いてある通りで、別にそのことに異を唱えるつもりは毛頭ないが、しかし汗まみれになって寝苦しそうにぐずる子供を数時間ごとにあやし団扇であおぎ、朝から食の進まない彼をなだめすかしてなんとか料理をその口に押し込み、脱水症状に気を配って薄めたスポーツドリンクを与え、夜は夜で建前を放り出して羽交い締めにした子供の口に無理矢理歯ブラシを突っ立てて号泣させながらマウスケアし、なんて事で1日を終えると、まぁ情緒だ心理だは、こうやっててんてこまいする親のバカさ加減を見て適当に自分で形成してくれとしか思わない。


対してその母体へのアプローチはもう少し繊細さを要求される。身体維持ももちろん気を配るがそこはそれ成人女性なのだから、一応自律して自己管理しているようだし(時々あやしいけど)、夫婦だからといって「ああ、生理が来てるようだけどまたお腹も壊してる?」なんてことまで口を出すのは勿論余計なお世話になる。どちらかと言えば24時間365日、子供と基本的に一緒に過ごし、私などが長男を体温計やらなにやらで把握しようとする隣で、“はだの触感が朝と違う”とか“尿の臭いが昨日と変わった”とか“ちゅーした時の味が変”とか、そういうレベルで子供を感じ考えている人の、嵐のような「心理」や「情緒」に注目しなければならない。端的にいえば、子供の母体というのは、自らが胚胎し分娩する/分娩した子供の爆発的な生成変化を全面的に受け止め、同調を強いられる存在なので、その身体的、心理的不安定さは子供と同等かそれ以上なのだ。そばにいる私は、彼女の劇的なメタモルフォーゼに幻惑されつつも、それに流されないように、むしろ彼女が子供を皮膚感覚で捉えるのと平行するようにその「匂い」や「肌触り」などまで含めて感じなければいけない。


そして、そのように母体の妊娠から出産、育児までを一緒にこなしていって感じたのは、私が信用している近代医療は、けして全面的に彼女を救えもしないし十分な安心やリラックスも与えられない、ということなのだ。場面によってはまったく逆のストレスとなって彼女を襲った。無神経な総合病院の診察で傷ついた彼女、長男への説明不足の薬の処方への不安を訴える彼女etc.、そういう時に、ふと彼女が、近代医療ではない、代替医療その他の提供する「こことは違うかんがえ」に興味を持つことは、私にはまったく自然なことだと思えたし、ましてや頭ごなしに否定するようなことは意味がないと思えた。


ここで、とても私が大事だと思ったことがある。ホメオパシーその他の「非・近代医療」が求められ実際に埋めているのは、「母親の不安」なのだということだ。それは一見子供のためをうたったメッセージを流していることが多いが、実際にそれらが「救っている」のは事実上母体(の心理)である。だから私は、母体が安心・リラックスし、母体がよりよい心理状態を得られる考え方であれば、必ずしも最初から全面否定しない。同時に、子供の身体・生理的な水準に対する態度としては、冒頭に書いたとおり近代医療に信をおき、そのような診察と出産と育児を母体の合意を得て進めていく。このような言い方は、実際には簡単に分節できない。例えば妊娠中は母体と胎児の身体は分離して考えられないしそれは分娩まで続く。母体の心理は、妊娠中の胎児だけでなく出産後の乳幼児、児童にまで影響する。


しかし、それでも原則というのは持ち得る。母体の心理と子供の身体を、一応切り分けることは、例えば夫婦間の対話においてそれなりに有効だ。例えば私たち夫婦は、今は予定がない第二子がもし授かったら、どういう環境で産むかで話し合う事がある。私はもう40歳近くなった母体を考えれば総合病院のほうが、と考えるが、配偶者は助産院も検討している(総合病院で受けたストレスの記憶があるわけだ)。こういった場面で、「母親の気持ちの安定」と「子供の身体のリスクの回避」を分けて検討することは配偶者も納得しやすい。なるほど、あなたの感情や関心はケアする必要がある。そこはどうするか。同時に、子供の身体を守るには何がベストなのか。こういう、ある種の柔軟さがどうしても現場では必要になる。妊婦・胎児・乳幼児に適切な処置を施さない、なんていうのは論外だけど、陣痛が長引いている妊婦の部屋でアロマテラピーをする程度のことを排除し軽蔑する必要はないし、育児の疲労の中、言葉を話し始めた幼児に胎内記憶について尋ねることを楽しみにしている父親をあざ笑う必要も無い。小児科で症状を訴えればその症状の数だけ機械的に薬を処方されることを警戒するのを引き止める理由も無い。


こういうとき、例えば今わき起こっているホメオパシーへの言説は、たぶんおおよその場面では不安感から不用意な反近代医療へと近接してしまう人に効果的に響くとおもうのだけど、少数の、一般的な医療に傷つき不信の念をぬぐいきれない夫婦を追い込むことになりはしないだろうか。そして、そこで使われている、どこか攻撃的なことばが、そのことばの意図する事と反対の状況を作ってしまわないだろうか。繰り返せば私は日本学術会議の出した声明の意味内容に賛成している。しかし、同時に反ホメオパシー言説の「表現」にちょっと違和感を持つ。近代医療は妊娠・出産・育児において最も重要な体系だと私は思う。それは、近代医療が、自らの限界に対して常に明晰な認識を保持しているからに他ならない。付け加えれば、今の産科や小児科の置かれている、ちょっと驚くべき困難は、「近代」の限界云々以前の事が原因だったりする。総合病院の診察が無神経に流れているのが、その病院だけの問題とはいえないのが現状だ。医師・看護士・助産士まで含めて、限界の労働環境で働いていたりする(埼玉はことに大変なようだ)。そういう中で、母体は、そして父親は不安と共存している。あらゆる水準で助けの手が足りない状況で、彼等が何かにすがってしまう構造というものに対する想像力が必要だと思う。