チェブラーシカ」がかわいい。数日前まで長男がヘビーローテーションで見ていたのだけど、この旧ソヴィエトの人形アニメーションの、どことなくノスタルジックでぎこちないお話もかわいいし、そこでちょこまかと動く、サルともモルモットともつかない奇妙な生き物チェブラーシカは歩き始めたばかりの子供のようでキュートだし、チェブラーシカの友達のわにのゲーナも、大人とはいえ随分不器用な存在で親近感が在る。そしてその2人がやさしく寄り添い、いくつかの出来事を経験して行く様子を見ていると、いつか自分が小さな子供になって、その子供の心を持ったまま、この「チェブラーシカ」の世界で生きていけそうな気分になる。甘い夢を見ているようだ。


素朴で、個々のお話はとても短く、しかもたった4話しかないこのささやかな作品が、殆ど1日中かかっていても飽きる事無く、何度も見直せるのはとても不思議だ。例えば宮崎アニメのように、とても豊かなイメージとめくるめくような運動に満ちた映像であるならば、確かに何度も見るに耐えるだろう。ストローブ=ユイレの映像のように、厳格なショットと時間で緊密に構成され、風景の細部の複雑さが定着した映像でも、このような反復した再生に耐えるだろう。しかし「チェブラーシカ」はそのどちらでもない。とても丁寧に作られた人形アニメだけど、今の日本の映像コンテンツからみれば泣けるほどローテクで緻密とは言い難いし、アングルやカメラの置かれ方もたんたんとしているし、4話中の第三話目はちょっとお話が破綻しているように見えるし、さいごの「おまけ」的なお話はチェブラーシカの人形の顔が変わってしまってがっかりするし、細部の設定にも矛盾がある(最初のお話ではお手紙が読めていたのに、4話目で文字を習おうとする!)。


だから、この「チェブラーシカ」の魅力は、そういった、映像作品の「性能」あるいは「スペック」といったものとは別の次元にあるのだと思う。同時に、それは単にキャラクターとしてのチェブラーシカが愛玩的にかわいい、というだけの話に還元されるのでもないと思う。「チェブラーシカ」がかわいい、という時の「かわいさ」は、とても微妙でありながら強く、深く、豊かなものを含み込んでいて、それはたぶん、かなりの程度作られた場所や時代を越えた普遍性をもっているだろうし(実際ロシアでも人気だそうだ)、今後も広く受容されるだろう。しかし、同時に、それはやはり旧ソヴィエトという特殊な社会と時代から産まれた作品で、そういった特殊性が深く刻印された中から、始めて「普遍」と言えるものが誕生するのだとも思う(昨年日本でオリジナルのテレビアニメが放送されたようだけど、私はいまのところ見ていない)。


2つめのお話「ピオネールに入りたい」で描かれているのは世界への贈り物、という主題だ。ここでの主人公はチェブラーシカではなく、友達のわにのゲーナになる。ゲーナは子供ではない。50歳になる(しかし長寿のわにとしてはまだ「若い」)。冒頭、雨の中、一人で迎えた誕生日を、ゲーナは自分自身の歌で慰めている。チェブラーシカに出会うまで孤独だったゲーナは毎年、自分の誕生日をこうして一人で迎えてきた筈で、今年も彼は自分の誕生日、すなわちこの世界に自分という存在が贈られた事/贈り物としての自分を一人で祝う寂しさの中にいる。自分がこの世界に贈られたことを祝う人が自分しかいないこと。この不安は、「残念なことに誕生日は一年に一度きり」という歌詞に複雑に織り込まれている。誕生日は、ゲーナのような立場の「大人」にとって非常にきつい日だ。


しかし、友達になったチェブラーシカが、ゲーナにプレゼントをくれる。かっこいい贈り物のヘリコプターの玩具は2人を、孤独から救うと同時に「社会」に直面させる(ヘリコプターにつかまって空を飛ぶチェブラーシカのシーンは、この作品中最もイマジネイティブなシーンだ)。2人は旧ソヴィエトの子供組織ピオネールに憧れながら拒絶される。ここでゲーナは、チェブラーシカより遥かに過酷な場所にいる。単に幼いチェブラーシカと違う、「大人」のゲーナが「立派じゃなきゃ入れない」ピオネールに拒絶されるとはどういうことか。ここで、ゲーナは「立派」の意味を考えざるをえない。「ピオネールに入れて」と言うゲーナは、誕生日にプレゼントを欲しがる子供でしかない。しかし、ピオネールとは、むくどりの巣箱を作り、火をおこす技術を持つ、つまり社会に奉仕=贈り物をする立場なのだ。


自分たちでむくどりの巣箱を作ろうとしながら失敗するゲーナは、しかし目の前で危険な遊びをする幼い子供を救う。この場面で、初めてゲーナは「贈られる」立場から、「贈る」立場に変化する。そして気づく。プレゼントをあげることは、プレゼントをもらうことより素敵なことなのだ。ゲーナは子供達に安全な遊び場を作ってあげることに奔走する。そして子供達によろこばれ、社会(警官)からも承認を得る。ここで終われば、このお話は、いわば一般的な去勢を描いた普通のお話しになるが、名実ともに「大人」になったゲーナは、しかし、その遊び場を作る仕事に興味を示したピオネール達を拒絶しかえすのだ。自分より弱い立場の子供には贈り物ができたゲーナは、自分を拒絶した(贈り物をくれなかった)ピオネールには贈り物ができない。このことでゲーナは、冒頭の、誰にも誕生日を祝ってもらえなかった時と同じ寂しさに帰ってしまう。贈り物をあげられないことは、贈り物をもらえない事と同じ哀しさを持つ。


だから、ゲーナは、鉄くず回収をしているピオネールに、自分の経験から知っている大量の鉄くずを贈ることを思いついたのだ。ピオネールに鉄くずを贈り、その結果ピオネールに迎え入れられたゲーナは、行進の列で、さりげなくチェブラーシカを自分の後に並べる。ここでゲーナは、本当に自分が「立派」になった自信を持ち、チェブラーシカをちょっとだけ自分より「小さい」ものとして扱う。しかし、最後のシーンで、転びながら行進から少しずつ遅れるチェブラーシカのシルエットに満ちるのは、「立派」である(贈り物をする)ことを競うピオネールとゲーナを、少し離れて肯定する包容力だ。このお話では、一番小さなチェブラーシカ、全てのシーンで副次的な存在のチェブラーシカこそが、最初から最後までもっとも大きな贈与者になってる。そのチェブラーシカのあり方が、「立派」でも「偉い」でもなく、「かわいい」のだ。この「かわいさ」の奥行きは注意するに値する。チェブラーシカはちいさくて、おおきくて、でもちいさい。


この作品に、例えば様々な細部に見られる社会=旧ソヴィエトへの皮肉や、そういった皮肉の限界を見たりすることにあまり意味は感じない。むしろ、そのような、奇妙な社会を通して描かれる、寂しさや嬉しさや悔しさや憎しみや優しさや「愛」が、今の日本と言う、これまた特殊な社会にいる私たちにまっすぐに届く、そのまっすぐさこそに驚くべきなのだとおもう。あえて旧ソヴィエト、というところに注目するなら、その映像の色彩やデザインに見られる、明らかにロシア構成主義の名残を持つモダンさの「かわいさ」ではないだろうか。第一話目の最初の、壁に次々とポスターに見立てたクレジットが張られるシーンはとてもチャーミングだ。また、三話目の鉄道の模型の造形なども美しい。こういう細部の魅力は旧ソヴィエトならではだと思う。同時に、空港や鉄道車掌の酷い官僚的態度へのシニカルな描写も旧ソヴィエト的だ。笑える。