DVDの「崖の上のポニョ」(宮崎駿監督)を見た。開始そうそう、しまった、と後悔した。海の中、無数のクラゲや魚、イカなどが遊ぶ映像の凄まじさは、どう考えても劇場で、大画面でみるべきものであり、自宅の、二十数インチしかない液晶テレビで見るのは間違っていた。以後、その後悔を胸に抱きながら、しかし最後まで呆然とそのイメージの流れに巻き込まれていった。全部で1時間半以上あったのだろうか、そのような時間は映像の展開に完全にのっとられた。とくに前半は物語よりも明らかに映像の力がずっと強く、筋や、展開の合理性や、「意味」のようなものがまったく気にとまらない。ふっと「このポニョって何だ?」という疑問が湧くことはあるのだけれど、そう思った直後に画面から繰り出される動きに意識が持って行かれてしまい、結局最後の最後まで「意味」「スジガキ」が気持ちの水面上に上がることがない。


冒頭、クラゲのまるっこい形態が溢れるように上へ上へと移動してゆくその瞬間から、この映画の「動き」と「形態」の質の全部が、人間によって、手で描かれたことによるのだということが、何の予備知識がなくても理解できる。このことは、全編を通じて何度も確認される。ポニョが海面に浮かぶ前の「妹」たち、地引き網に巻き込まれてビンに頭を突っ込むところ。ポニョを奪還しにきたポニョの父親の手下の怪物たち。宗介を乗せた母親の運転する車の動き。上げていけばきりがない。父親の魔法の水を呑むポニョとその変容、溢れる海水、巨大になる妹達、荒れ狂う海、翻弄される船etc.、人が手で引く線に最も適した曲線であらゆるものが造形され、人が手で引く線に最も適した動きが間断なく続いて行く。こういう動きはけしてCGでは作られないし作られる必然性もない。「手で描く」、このことだけがこの映画で唯一の基準=倫理として一貫しており、それ以外のことはまったく「何かを守る」気配がない。


こういう言い方をすると、近年のCGや特殊撮影の効果に比べて「人の手」による作画を称揚するように聞こえるだろう。実際それは素晴らしいと思うのだが、「人の手だけで描く」ことは、実は自由を手放すことになっている。人の手が引き出す線や動きは、それがいかに熟練のアニメーターによるものであっても、どうしてもその描き手の身体に限定されている。だから「崖の上のポニョ」は、一見荒唐無稽なイメージに溢れていようと、決定的に「人の手が描いた線」「人の手が描いた動き」という枠組みから離れない。あらゆるフォルムと運動が、描き手の身体に必ず結びつけられており、それは基本的に、見る人の身体の延長にある。職人であってもやはり手は2本で、腕の長さが2メートルもあったりしない。そこで産み出せる線の質や長さやスピードには限りがあって、その選択肢は驚くほど少ないのだ。単にバリエーションや速度といった「線のスペック」だけに限定するならば、たぶんCGなどを使った方が遥かに「豊か」だろう。


実際、この映画の「イマジネーション」は、どう見ても誰も見た事が無い種類のものではない。典型的なのが物語後半で出てくる巨大な女神(ポニョの母)で、たしかにその登場は度肝を抜かれるが、しかし見て行けばこのようなイメージは、古典的な初期のアニメーションの名作を彷彿とさせる。そのようにみれば「崖の上のポニョ」は、かつてのディズニーの傑作、「白雪姫」や「ファンタジア」といった作品で描かれたイメージを濃厚に抱えているし「やぶにらみの暴君」「白蛇伝」も想起させている。言ってみれば「古い」。だから、この映画の凄さは、線の速度やバリエーションといったスペック的なものとは無関係だ。ただただその「質」と「密度」と「強度」にだけ裏打ちされている。強迫的な同じイメージの反復(くらげ、ポニョの妹、魚、波その他)は、いわゆるデジタルツールのコピー&ペーストとは全く異なる、“おんなじ丸ならいくらでも描ける”といった、手の動きの快楽から産まれているし、向こうからこちらへ溢れ出す水(ポニョの父親の実験室に開けられた円から侵入してくる水、荒れる海の海面が盛り上がって帰宅する宗介の車に迫ってくる海水)の勢いも、手でぐいっと奥から手前に引かれる線の集積で出来ている。


これらの線と地続きな線を、誰もが一度は引いたことがあるだろう。こんな古い、こんな身近な、こんなにありふれた武器を、とことんまで使いこなし使い尽くした映画が「崖の上のポニョ」で、私は感動してしまった。他にも注目すべき点はいくつかあって、ことに宗介の母親のリサは、いわゆる「母親」ではない、一人の労働する女性として描かれている。宮崎駿という人は、明らかに「少女」と「母親」に固着していて、それらを描くとステロタイプになるのだが、こと「働く女性」となると、かなり生き生きとした描写をする。リサを「母」ではなく「働く女性」にしたことで、この映画に果断さと速度としなやかさが産まれた。リサは半ばもう一人の主人公であり、活劇をする唯一の登場人物でもある(父親の見事な介入のなさには笑ったけれど)。ヒロインといってもいい(ポニョは明らかにヒロインではない)。老人達を介護するリサは、多分宮崎駿にとって、とてもビビッドな「他人」なのだろう。無意味にもてる宗介にも、ポニョにも、保育園の女の子にも、女神にも、老女にもどこかしら宮崎駿のコンプレックスとコノテーションが付与されているが、リサにはそれらが薄い。「産まれ直す」ことと一体化した「老い」「死」の匂いの濃厚な「崖の上のポニョ」の中で、リサだけがフィジカルに健康だ。ちょっと無茶だけど。