松浦先生は一貫して、絵画の「基底」として統一的な平面をアプリオリに設定してしまう態度を退けていらっしゃいます。むしろ視覚の原理を徹底すれば、平面はいくつもの視点へと分解されてしまう、しかしにもかかわらず、ある種の統一性が要請される、それが絵画のパラドクシカルでありながら面白いところだと論じられているように思います。昨今、VOCA展上野の森美術館)や「絵画の庭」展(国立国際美術館)に見られるように、ペインティングを「再発見」しようとするような動きが見られますが、自信若い私たちから見ても、地を前提にしたうえでいかに図を工夫するかといった、率直に言ってあまりにも限られたゲームしか許されなくなっているように見えてしまいます。(あとで質問させていただきたいのですが、それは許された相対的な自由にのっかっているだけであり、その自由の「テーブル」を問うていないように見えます。)そういう現在の状況や絵画を、先生ご自身はどのようにご覧になっているか、あらためてお聞かせ願いますか。


松浦寿夫氏へのこのような質問から始まる「ART CRITIQUE」誌は、そののっけから、問題設定のあまりの「正しさ」において私にたじろぎを与える。端的に言って、このような「正しさ」を身につけるには一定の備蓄のようなものが必要なのではないか、と私は考えるのだけれども、しかしインタビューの最初の一言からこうも事態の中核に達する直球を投げるある種の傍若無人さこそこの雑誌の武器なのだ、と納得するのは、編集者達が京都の若い人たちの集いだという事前の知識があるからかもしれない。私は初めて「献本」を頂くという経験をこの「ART CRITIQUE」誌によってもたらされたのだけれども、この「献本」もまた、美しい礼儀正さは表の一枚だけの装いで、その球筋は胸元にすっと投げられた硬球のように鋭い。
対する松浦氏の返答もまた、この直球に対し見事にクリアな打撃となっている。

(前略)実際「絵画の庭」展に出品された多くの作品が、その内包としての画像のより明瞭かつ的確な出現を保証すべく、均質な背景をいわば舞台として設営し、その条件のもとで何らかの画像の出現を組織していたと思います。このような背景ないし地の処理は、当然のことながら画像の出現を可能にする条件の準備と理解できます。この点で、絵画を具象/非具象と弁別する根拠の無意味さも明らかになります。というのも、幾何学的な図形であれ、具象的な対象であれ、画像の出現を準備するための背景の編成という方法が構造的な水準が採用されるかぎり、内包するものが何であれ、構造的にまったく同等になってしまうことはありえるからです。
 ところが、私にとって近代絵画の教えとは、ごく端的に、この内包性が絵画制作の条件としてはまったく保証されえないという点に集約されるといっても過言ではないと思えてなりません。

この、170ページを越える構成の冒頭の見開きたった2ページの存在によって、「ART CRITIQUE」誌はおおよそ現存のいかなるアートジャーナリズムにも設定できない水準に達してしまった。端的に言えば、この言葉を日々の製作に照らし合わせて、ああ、と感じない画家はそうは居ない筈なのだし、事実私等はここのページをコピーしてアトリエの壁に貼っておきたいくらいではある(それだけでもの凄い教育効果がある筈だ)。ここに書き付けられた一往復の言葉のやり取りを見て、こんなこと当たり前の前提じゃないか、今更わざわざ時間と資金と労力を割いていわずもがなの事を言おうとするのはあまりにも保守的な優等生のそぶりではないか、と「正論」を言う人がいるとしたら、その人こそ単なる「正しさ」に居座ってその「正しさ」の質を問おうとしない怠惰さにまみれている。もちろんのこと、このようなまっとうな問題設定をあえて「あらためてお聞かせ願えますか」とはっきり表明する態度こそクリティーク、というべきものなのであり、この問いの中に含まれたいくつかの固有の展覧会の存在が、むしろ今の環境における主要な現実の所在なのだという、これまた退屈な、しかし決定的に動かし難い事実を知った上で上記のような怠惰を決め込むのなら、それはもはや怠惰を越えた悪意に近接する。


突っ込みどころがないわけではない。「視覚の原理を徹底すれば、平面はいくつもの視点へと分解されてしまう、しかしにもかかわらず、ある種の統一性が要請される、それが絵画のパラドクシカルでありながら面白いところだと論じられている」と松浦寿夫氏を評価する「ART CRITIQUE」誌は、ごく単純な事実、つまり松浦氏が「論じる」人間であることよりもまず先に「描く」人であることを見落としている。これは松浦寿夫というタレント(才能)を巡る言説としてそれこそ当たり前の風景になってしまっており、前提の地として安定した機能を発揮しているわけだが、先に人形町vision'sで私を含めた4名で行なわれた「組立」展での松浦氏の出品作品を見れば、この「地の前提」こそまず疑われるべきであることは一目瞭然の筈なのだ。


松浦寿夫という画家はけして「優秀」な画家ではない。むしろ「優秀な画家」であることを徹底して回避することである強度を達成しようとする希有な画家(参考:id:eyck:20100707、id:eyck:20090507およびid:eyck:20061027)だが、その実践は、結果として個々の作品の質のばらつきとして現れる。発表される作品の全てが良作という作家がもしいたとしたら、もしかするとその画家は画家ではなく一種の工芸家ではないかという疑いこそがまず提出されるべきだけれども、それにしても松浦氏の絵画は、そのような「完成度」が問題になるようなふらつき方はしない。もっと根本的な部分、すなわち「絵画とは何なのか」というところでまでブレを発生させる。10打席中9打席は空振り三振(見送りすらしない)、しかし残り1打席はちょっと度はずれた場外ホームランを空中に打ち込んでみせる。松浦氏はそういう画家だ。その点、今回の「組立」に出品された2点の大作は、そのどちらも素晴らしいバッティングというべきもので、松浦氏の発表を私の様にかなりの頻度で追っている人間にとってもちょっと驚くべきサイクルヒットだった。「絵画の「基底」として統一的な平面をアプリオリに設定してしまう態度を退けて」いる作品が現出してしまった衝撃は、同じ空間に作品を置いた人間にとっては痛撃とも言えるインパクトをもたらした。このことは是非に強調しておく。


「絵画の「基底」として統一的な平面をアプリオリに設定してしまう態度を退け」ることが論じられるだけでなくまさに実践されていく事への必要性と、その力への希求を、しかし「ART CRITIQUE」誌もまた保持していることは、この雑誌全体を見れば理解はできる。後半を占めるネグリとその論理を媒介したいくつかの可能性の探求は、2008年のネグリ招聘プロジェクトとその頓挫が、一種の祭りとして消費され既に忘れられつつある現状で、ほとんど唯一のまともな反響として成立している。ここで力点がおかれているのが、ネグリそのものではなく、その可能性を土台とした、実際的な運用への試行錯誤であることが、市田良彦氏のインタビューから読んでとれる。ぶっちゃけ、このインタビューはネグリよりも面白いのだ。ここで市田氏が語っているのは、まさに「「基底」として統一的な平面をアプリオリに設定してしまう態度を退け」る、そのような生き方のメチエに他ならない。そして言うまでもなく、このようなメチエは〈論じ〉られるだけではなく、〈描かれ〉なければならない。というより、そのような視点を持ってみてこそ初めて「ART CRITIQUE」誌という描き=実践は意義を持つだろう。


ART CRITIQUE