・ギャラリー小柳で池田亮司展。池田亮司の音楽にとっての視覚的要素はなぜ必要なのだろう。このような問いは間違いで、本来池田亮司の「作品」の要素として音と視覚がある、と考えるべきなのだろうか。しかし池田氏の「作品」にはCD(音源)だけのものもあり、今回の展示にもあったように視覚作品だけのものもある。


・この展示での音と視覚の関係はどのようなものなのだろう。音の構造、その音が鳴るシステムが明示されている、そのように考えることは可能だろう。つまりそれは楽譜の展示であると。しかし、これでは十分に池田氏の作品の経験を言い表せていない。池田氏の作品は「音」あるいは「視覚」というよりは「場」と言った方が適切であるように思う。音、あるいは視覚の関係性が切り開く作品空間の開示。


・バーネット・ニューマンは、絵画が「自然」から切り離された地平の開示を行なった。純粋に知覚的平面にしか立ち上がらない、現実の深奥空間とは無関係な「絵画空間」。ロスコにも、あるいはポロックにもまだ残存していた3次元空間の残滓をぬぐい去った、人工的なひろがりが、自然物である脳の作用の上に展開する。この矛盾の産み出すテンション。池田氏の広げる「作品空間」には、そのような手触りが、かすかに感じられる。


・間欠的に鳴る電子音。プロジェクターによって壁面に投影される音の構造。その相互は互いを「説明」しているのではなく、音と視覚によって刺激された脳が、イメージの内閉を突き破ってまったく未知の、自然や感情に支えられない、「作品空間」だけが貫く「場」を、脳の上に起動させる。そのとき、画廊の薄暗く閉じた空間から無関係な位相へ観客は打ち上げられる。


・この「場」はイメージではない。本当に、あの電子音が鳴り響き映像が切り替わった瞬間に、その音と映像の広がりによって開示され、その余韻と余韻の中断によって完成し、その度毎に消えてしまう何か、でしかない。時間と空間がまったく同じ式によって表現されるように、そこでは視覚と聴覚が同じ式によって示されている。


・式。池田亮司が見せているのはまさに「場」の式に他ならない。人間的なるもの、あるいは「人間」そのものを排した徹底した人工の「場」。ニューマンの絵画のように、あるいは見ようによってはニューマンより遥かに工芸的に完璧につくりあげられた「場」。


池田氏の作品全てに疑問なしとはしない。端的に言って、視覚と聴覚の関係が十全に緊密とは言えないものも池田氏の作品にはある。そういう意味では時に意外な隙を見せるのが池田亮司という作家なのだと思う。単に音の演出道具として視覚が従属してしまう(あるいは逆)とき、そこに「場」はなく人間の感情なる退屈がそこに忍び込む(愛知トリエンナーレの、光の塔のインスタレーションなど)。


池田氏は、大規模な「ショー」を組織しようとすると、出来てしまう。しかしその資質はむしろささやかな、個人的なボリュームのものにこそ発揮されるように思う。そういう意味で世界的な評価のあるアーティスト、という立場に池田亮司という作家は馴染みきっていないように見える。世界中に人間が居なくなり、池田氏だけがいる状態であってもまったく関係なく、たった一つの脳の上に展開される「場」の式。そのような単独性にこそ池田氏の作品の美しさがあるように思う。