横浜美術館ドガ展。21年ぶりにこの重要な作家の展示が実現したことは、やはり素晴らしいことと強調しておきたい。オルセーが改修してくれて(そして重要作品を貸し出してくれて)本当に良かった。マネ展のときの境澤邦泰さんのように「このまえオルセーで見たからいいや、と思って」というような人はまぁ棚上げすべきで、やっぱりドガが20年以上も一定の水準で展観されなかった、という事実が作る日本の状況、というのはある。会期末ぎりぎりの29日に行ったら入場規制されていて、NHK教育で紹介もされていたことを思い出し失敗したな、と思ったが、この展覧会が成功したと思えば納得するしかないだろう。十分にポピュラリティのある作家だけれども、それだけにやや偏った認知(踊り子と湯浴みの画家)がされていた側面もある。そのようなところも修正される、沢山の人が見てしかるべき展覧会だった。


初期のアカデミックな訓練が十全にされた時期の作品が見られたことは貴重だった。この作家の、後の生涯にわたる様々な技法やテーマの探求の際にも、決して失われなかったと感じられた古典性が、この時期に培われたことがよく理解できた。確かなデッサンで画面を構築してゆくその姿勢は、例えばモネにはみることができない。この「デッサン」という言葉が、原理的かつ極めて柔軟な有様として現れているのがドガなのだ。それは色彩をけして排除していない。セザンヌが言うように、色彩を含めてデッサンは完璧になる。もちろんドガセザンヌではないし、その全体を通じて若干色彩が退潮して見えるものがあることは事実だが、しかしパステルという「色彩鮮やかな線描」があれだけ見事に生かせる画家、というのは、ドガのデッサンにおける色彩が十分に高い水準で統御されている証拠ではないだろうか。1896年の「草上の二人の浴女」は、まるでマチスかと思うような大胆な構成を持つが(実はルノワールに依拠した作品だが、実現した画面はまるで「夢」みたいだ)、そのような大胆さがしかしどこか「古典的」というべき性格をもつ、そこが面白い。


「エトワール」が傑作とされるのは実に当然のことで、確かにすごい絵だ。しかしこの絵の「凄さ」は、果たしてどのくらい了解されているだろう。上のようなドガの古典性を考慮に入れれば、この絵はドガの中でもエポックとなる作品だろう。ドガは自らのアカデミックな素養を相当意識して、利用しつつ破壊しようともしている。その意味ではドガのプランは十分に感じられるのだが、しかしそれは「予想以上の成功」、あるいは予想外の事件に近かったのではないか。単純な言い方になるが、この作品は絵画空間が奇妙なゆがみを見せている。そして、このような言い方は危険でしたくないのだが、多分、この空間のゆがみは実作を見ないと感じられない。一般に絵画空間の成り立ちは、画面の分割のされ方で規定される。ことにドガのような具象的な作品はそうされがちだ。だから、図版(写真複製)を分析すれば析出されると考えられる。しかし、厳密には「絵画空間」とはけして図像に還元されないのだ(それが分からないひとにはけしてニューマンは分からない)。エトワールにも、そのような、構図や構成に解消されない空間がある。これがゆがんでいる。もちろん、形式的な分析が無意味とは思わない。画面下部に大きく取られた「床」は、踊り子、そして奥の舞台袖の描かれ方からすれば明らかに湾曲しており、高所から見下ろした際の、広角的な縦構図から発生する歪みはウエイトとして大きい。が、図版ではその広角的歪み自体はある合理性に基づいて理解できる。しかし、実作ではこの上(奥)へ伸びる空間が、舞台袖の粗いブラッシュのところでちょっとねじれて見える。タッチの方向、そして褐色・グレーの質が干渉して起きる事態だと思うが、この絵は非常に謎めいた構造を持っている。


このような空間の謎めき方に、方法的なアプローチをもって再接近したのが湯浴みする女性像を連続して制作したシリーズなのではないだろうか。女性がヌードで体を拭く作業に没入している様を斜め後ろから、あるいはやや上から見下ろすことが多いこの作品群は、モデルがけして画家を「見ない」点において徹底している。つまりここでは裸体は二重の意味で−現実的にも意識的にも−「はだか」なわけだが、ここでは画家−モデル間の心理的な側面より、そのような視線の「角度」が生み出す空間的な変容こそが注目できる。かがんで下を向く裸婦の背後からの視線(浴槽の裸婦、浴槽の女、共に1885年。入浴 スポンジで背中を洗う女性 1887年)が生み出す画面左下の空間の歪み、あるいは「浴盤」(1886)の画面右1/3を突然切る卓上静物(そういえばマネ夫妻を描いた初期作品に画面右をマネに切断された作品があった)。ことに異常なのが室内で撮影したヌード写真を元に描かれた「浴後(身体を拭く裸婦)」の異常な画面で、赤い背景、ねじくれた裸婦、極端に左の空いた構図と、自らの古典性を反転し、変形し、湾曲させる試みに溢れている。この絵もどこかマチス、特に1926年頃のマチスを感じさせる。


この次期のものを、例えば窃視、というような側面からしか論じられないとすれば、それはあまりにも貧しい(それが間違いだ、とも無意味だ、とも言わないが、正直意味深に語りやすいというだけのものにしか思えない)のであって、絵画作品はあくまでその作品が立ち上げる絵画空間に基づいて語られて良いはずだ。上田和彦氏が「組立」収録の対談中で語っていたドガの彫刻は確かに面白いもので、生前唯一発表された作品の緻密さも凄いが、晩年の視力が衰えた中での作品も面白い。やはり視力をうしないつつあったモネの最晩年の絵画を彷彿とさせた。