三菱一号館美術館で「カンディンスキー青騎士」展。2回見た。展覧会を複数回見るのは、いつものこととは言わないまでもたまにあるのだけれど、今回の展示は、1回目を見たときから、これはまた見にこなければならない、と思っていて、それはたまたま時間があったから二回見たとか、そういうことではなかったのだ。自分が、絵描きとして、まさに今問題にし、また突き当たっていることにこの展覧会がとても重要なヒントをくれそうな気がした、ということで、結構切実な気持ちで見た。


こういった個人的な事情を棚にあげても相応に良い展覧会であることは強調しておいたほうがいいだろう。カンディンスキーを中心としたグループの面々の作品も含む、あくまで「青騎士」という20世紀初頭のムーブメントを概観する内容だし、例えば2002年に東京国立近代美術館で行われた「カンディンスキー展」のように<コンポジションVI><コンポジションVII>といった大作が見られる展示ではない。とはいえ、それだけにカンディンスキーが抽象に向かう前の時期の作品が揃って見られるのは貴重で質の高い経験になるし、フランツ・マルクやガブリエーレ・ミュンターの作品がまとめて見られるのも面白い。


今でこそ重要なものとして扱われる「青騎士」が、実際の現場では当時の主流派からも、また当初は手を結んでいた分離派からさえも弾き出され、同時代の評判も最低だった、マイナー中のマイナーなものだったことが良く分かる構成で、生々しい雰囲気をよく感じさせる内容になっている。彼らは本当に限られた小数の人々であり、世界の片隅にだけ居場所がある、ほとんど誰からも見向きもされないような連中で、しかし自らの試みていることの面白さだけは確信していて、その確信に対してまったく妥協せず制作していた。このことが順路に沿って少しづつ感じ取れていくと、感動的ですらある。


決定的なのはカンディンスキーの色彩、あるいは油絵の具の構築と展開の素晴らしさだろう。彼の色彩と絵の具の扱いの非凡さは初期の、小さなキャンバスボードに描かれた何気ない風景画にさえ現れる。タッチの一つ一つがエッジを立ててもりあがり、かすかに混ざり合いながら、しかし要所要所で混濁させず、くっきりと分節されて色彩を組み立てていく様は本当にスリリングだ。ここで既にイメージは単なる表象再現ではなくイメージそれ自体として立ち上がり、対象から自律して「絵の具の建築」として把握され直している。会場序盤の「コッヘル−シュレードレフ(1902)」が既にそうだし(画面下部の水辺の岩場のタッチの美しさに気付くだろうか)、「サン・クレール公園−秋2(1906)」の、明度が低く彩度の高い絵の具の、宝石のようなきらめきは驚くべきものだ。以降、1910年くらいまでに、カンディンスキーの絵画は高速度で純化を続けていく。今回見ることのできる最高の作品は「コンポジションVIIのための修作2(1913)」、および「万聖節1(1911)」で、これはその画面構成の圧倒的な複雑さと色彩の圧力の強度においてぬきんでている。


カンディンスキーの作品の凄いところは、白が戦略的に、かつ効果的に使われていることだと思う。一般に白は無闇に使うと画面の色彩を殺してしまう。即物的にいちばん明度の高い色として「決め」として使ってしまうと、それだで作品は安易になってしまう。それが、カンディンスキーにおいては白は他の色彩を見事に切り分けつつ再配置し、物質として十分に抵抗感をもった積極的余白として機能する。このような、攻撃的な白は、セザンヌの余白やマチスまで現れない(マレービッチの白は機能が異なる)。そして、この白が、驚くほど多彩な色彩のビブラートを濁らせることなく個々に屹立させながら関係させる。


このようなカンディンスキーの分析的な白がなく、各色彩が混ざり合いながら虹のような波になるのが恐らくシャガールだと思う。というより、分析的白(あるいは作品におよっては分析的黒)さえなければカンディンスキーはひたすらシャガールに近接する。カンディンスキーの「内的必然性」とは神秘的な、分析不可能な領域から発生していて、それだけでイメージが立ち上がればそれはシャガールとなるだろう。これは抽象へと至るモダン絵画の、蒸留され廃棄されるべき残余ではない。むしろカンディンスキー内のシャガール性こそが抽象・モダンを胚胎し分娩したのであって、近代においてこのような「不透明さ」はその中核に歴然と存在している。そして、その不透明さを排除することなくしかし冷静に作品という個々の系の中で自律的に開示していったのがカンディンスキーで、そのときの主要な武器が色彩相互を適切に離し/連結する白(あるいは黒)なのではないだろうか。


そういう意味でむしろ本気で「謎」と思えたのがフランツ・マルクで、彼の作品の不可解さの前ではシャガールなどむしろ分かりやすいほうだ(なんだか何度も名前を出してしまったが今回シャガールは出品されていません)。カンディンスキーとは対照的に色彩相互が分けられず段階的につながってバイブレーションを起こしている「動物」の絵は、ほぼ夢の中の光景のような非現実性を示している。動物の出てくる夢、というよりは動物が見る夢(例えば猫や犬は明らかに夢を見ていると、ペットを飼っている人は主張する)。ここには人間理性を超えた「智」があり、それはなんだかんだ言いながら人の領域にいるシャガールの作品よりも踏み出している。「牛、黄-赤-緑(1911)」、「虎(1912)」の“わけのわからなさ”はカンディンスキーとは別の方向で飛びぬけている。