画家にとって、静物のモチーフを組むという行為は絵を描くことと同等の意義を持つ。というか、モチーフを組むところから既に制作は始まっている。例えば美術学校に通う生徒への指導として、彼ら自身にモチーフを組ませることは(少なくとも私が学生だった頃は)必須のカリキュラムではなかったか。モチーフを組ませることによって、かなりの程度その人の画家としての錬度は推察できるものだし、またその訓練をすることで実際の作品も良くなっていく。それはテーブル上にバランス良く様々なものを構成するセンス・趣味の披露ではない。何事かと何事かを関係させその関係自体がある空間、すなわち「描くに足る」事物となるよう設定すること、これが課題となる。テーブル上にバランス良く様々なものを構成する=既存のL字型の奥行きを前提として、その枠内に沿うように適当に組み合わせるのではない。何事かをどこかしらに置いてみる、その所作の連結によって奥行きそのもの、そのとき一回かぎりの場を展開させてゆくこと。セザンヌ静物画を見よ。


松浦寿夫が言うように、それらしく事物を並べる前提となる背景の自明性を疑うことこそが「近代絵画の教え」なのだとして、ここでの近代とは西洋アバンギャルドの基幹であることは言うをまたない。埼玉県立近代美術館で開催された「植田正治写真展 写真とボク」で見ることのできた、鳥取の一写真館の館主の作品群は、極東の島国のそのまた辺境で、このような西洋アバンギャルドの精髄が軽快に稼動していたことの証拠となっている。植田の写真は、シャッターを切る前から始まっている。一般に写真が孕む時間(すなわち対象の瞬間的なスライス)とは異なる、時間それ自体を生成しているかのような不思議な組成は、そのような制作プロセスから生まれている。


もちろん写真の世界で「植田調」と呼ばれるらしい独特の構成写真が、時間をかけて慎重に“モチーフを組む”作業を経てからシャッターが切られることによって一枚ごとの時間を、いわゆる「現実」の時間から一度独立して作り上げていることは想像するに難くない。ここで植田の砂丘で撮られた一群の写真、「コンポジション」(1937)・「群童」(1939)・「パパとママとコドモたち」(1949)といった作品を見てみよう。映りこんでいる個々の人やものは適度に離れていて間に距離がある。また全ての輪郭はくっきりとしていてそれぞれの要素は自律し、内部にしっかりと閉じている。その上で、視線や傾きによって隣の事物と連関する。この連関がいわばドミノ倒しのように連なって作品が形成されている。


注意しなければならないのは、この砂丘アプリオリな空間としてあるわけではないということだ。もしそうなら植田のような作家は他にも一定数存在するはずだが植田の「時空間」は空前絶後と言っていい。植田は前提とされているテーブル=砂丘に単にセンスよく人やものを並べたのではない。そこに慎重に人やモノを配置していく、その所作によってあの砂丘、世界の誰にも捉えることのできない砂丘を現出させたのだ。植田が、レンズの向こうに組み上げていく事物、その組み上げ自体が事後的に“写真空間”を切り開いていく。当たり前だが実際の鳥取砂丘に行ってもそこに植田の切り開いた砂丘は存在しないし、である以上誰もそのような砂丘を撮ることなどできない。


植田の写真が、常に「置く」ことから始まっているのは、例えば比較的スナップショットに近いといえる「童暦」、「風景の光景」あるいはヨーロッパ紀行から作られた「音のない記憶」といった写真集のシリーズにおいても一貫しているように思う。そこではたしかに植田は実際にある風景を撮影している。だが、鋭敏な植田の目と正確な技術を持った手は、ほとんど一瞬でレンズの向こうの世界を素材として一度ばらばらに分解して再配置している。実際に個別の物事をそのように操作していなくても、そのように成り立つシーンをファインダーによってエディットすることによって同等の効果を得ているのではないか。白い雪の中を点々と連なっていく黒い人の群れ。あるいはやや暗い、木立へと続く道に面を被って立つ子供。これらは植田が配置したモチーフではない。しかし、それを植田が捕らえ、フレームに入れ込み、これを撮る、と決断してシャッターを下ろす、その工程に植田の時空間の再構成がある。植田の世界はシャッターを切るその都度ごとに実際の世界から切り離され実際の世界の隣に置かれる。まるで砂丘に人やモノを並べるように。


そのように無数の世界を次々並べていくと、それらの沢山の世界が改めて相互に関連し更なる世界、銀河系のようなユニバースを形成する。このユニバースを繋げている力は「愛」と呼べるかもしれない。植田のモチーフを置く所作が、実にシャープに乾いていながら、むしろ温かいのはこの「愛」によってかもしれないが、特に植田の「愛」が顕在化するのは少女を捕らえたときではないだろうか。初期の傑作「少女四態」(1939)、また「少女たち(A)」・「少女たち(B)」・「少女たち」(1945)といった、非常にリリカルな少女像は牛腸茂雄的な危うさとは異なりながらもどこか共通した、形態学的ロマンチズムを感じさせる(この少女たちの形態への興味は、植田が8mmで撮影した子供の運動会の様子にも感じられる)が、植田正治にとっての決定的な少女とは明らかに妻・紀枝だと思う。「妻のいる砂丘風景」など、明確な作品意識に基づいた紀枝の写真が優れているのはもちろんとして、近年整理された家族のプライベートな写真に捕らえられた紀枝の、あまりに可憐な「少女性」は、実際の児童を捉えたときよりも無防備に露出している。この「奥さん」は子供をひきつれていてもまったく少女性を失っておらず、ちょっと見る方が照れてしまうほど即物的な「愛」が感光していて素晴らしい。