捨てられるキャラクターの見る夢
「涼宮ハルヒの消失」という映像作品は成功しているのか、それとも失敗しているのか。例えばこの作品の中の「普通の長門」。普通の世界の普通の女の子が普通に描けていなかった/普通の日常とファンタジーの対比が上手く行かなかったので失敗だ、と言ってしまってはまず間違いなくミスリーディングになる。「普通の女の子」という観念自体がファンタジーなので(たとえば「普通の長門」みたいに媚態で凝り固まった人物はきっと結構な人数実際にいるだろう)、「涼宮ハルヒの消失」で課題になるのは、仮想的キャラクターが「捨てられる」場面の感情、そこのリアリティーが描けているかどうかになる。
言うまでもなくキャラクターとは消費されるファンタジーだ。だからそれらが消費される=費やされ消える際に「キャラ側に」感情が発生することはない、というのが一般的な理解だろう。しかし、そのようなキャラにこそ「感情」が芽生えてしまう、というのが「涼宮ハルヒの消失」の中核になる。手塚治虫が漫画のキャラに死ぬ身体を与えたように、日本の漫画・アニメ的リアリズム(大塚英志)では、選択されなかった=捨てられるキャラにも感情が芽生えてしまう。
漫画・アニメ的リアリズムは、いかにキャラクターを「捨てるか」に支えられている。死ぬキャラクターに、傷つくキャラクターに、痛みが芽生えることでキャラがキャラになっていく。そして無数のキャラが「捨てられる」。その「捨てられた」キャラはどこへ行ってしまうのか。その「感情」はどこへ行ってしまうのか。例えば私は以前「化物語」について書いた中で羽川翼という「捨てられるキャラ」に触れたことがあるけれど(参考:id:eyck:20091129)、「涼宮ハルヒの消失」はダイレクトに捨てられるキャラクターの見る夢について主題化したもののように見える。
序盤はテレビシリーズからの世界観の引継ぎになる。定型的なキャラクターが定型的なオタク的学園コメディをなぞる(例えばしばらくして流れ始める主題歌がテレビシリーズと同じで、映像も一見なんの工夫もない「なぞり」になっている)、その「オタクユートピア」の反復から、ドラマが最初の変調を見せる12月18日にかけての描写の丁寧さは驚くべきものだ。日常の細部をきっちりえがく、その高精細さこそがある種の異常性を表象しはじめる感じが面白い。
そして、多分私がこの作品で一番うまくいっていると思うシーンへと移行してゆく。「オタクユートピア」において、半ばそれをメタ的な視点で眺めている、独白する主人公キョンが、徹底的な日常の学校の中で、突然宇宙人だとか未来人だとか超能力者とか言い始め、周囲からまったく承認されていない「当人だけのリアリティ」に基づいて周囲に迷惑をかけまくる。学級員にいいがかりをつけ、友人に妄想的なことを言って引かれ、女子生徒に迷惑がられ半ば暴力をふるいそうになる。このシーンの主人公と世界の齟齬は、いわゆる「おたく」的主体への痛みを伴った、戯画化された提示になっている。
テレビシリーズにおいて、視聴者と「おたく」的ファンタジーを痛みを除去しつつ仲介していた主人公がおたく的痛さ、すなわちファンタジーに固執し外部と自分の調停に失敗してしまう有様を全面的に展開している。はっきり「涼宮ハルヒ」なんかにコミットしている消費者-制作者の全員がこういう「痛さ」の中にいる筈だ、と言っているようなもので、逆説的ながらこういう描写があることでこの作品は「おたくの外部」にかろうじて開いている。
そして次に、私がこの作品で(というか、昨今の「キャラ」全ての中で)一番「気持悪い」と思うキャラクターが出て来る。「普通の女の子」と繰り返し言明される長門有希で、皮肉な事に「普通じゃない妖怪」といっていい妄想的キャラクターになっている。一挙手一投足が気持悪い。視線を動かすだけで気持悪い。歩いても座っても気持悪い。無駄に光る目が気持悪い。この「普通の女の子」に比べれば、テレビシリーズの歌って踊れるバカキャラである涼宮ハルヒの方が数段リアルだと言っていい。
私がこの作品を、ドラマの水準で「失敗」していると思うのはこの「普通の長門」の造形ある。端的にいえば、ここでの「普通の長門」にキョンが(そして観客が)充分に感情移入でき、この「普通の世界」と「普通の長門」が、キョンにとっても観客にとっても価値ある存在だと認識された上で、なおかつその長門を捨てて元の世界を選ぶんだ、という流れこそが「近代ドラマ」になるわけで、これでは勿論キョンも元の世界に戻るだけの一択だろう。だから後半の、キョンの自己検討の場面にあんまり意味がない。
魅力的に描けているのは、キョンと違う高校に通っていることになっている「普通の涼宮ハルヒ」で、屈折した顔をしてキョンを嫌悪し殴る蹴るの暴行を加えるハルヒは長門が酷い分奇跡的に素晴らしいキャラクターになっている。この「普通の涼宮ハルヒ」が、たった一言キョンの「ジョン・スミス」というキーワードを聞いただけで「テレビアニメのハルヒ」に戻ってしまうのはあまりに惜しいし、演出としても唐突だ。北高の部室に乗り込む行動力と、キョンへの警戒感は共存しつつ描けた筈で、このあたりから後はあまりに作品の纏めへと筋を回収するだけになってしまう。最後の病院の屋上のシークエンスまでくると、あまりのベタさ加減にむしろ安心感すら感じる。
「普通の長門」が全然普通でないことは問題ではないかもしれない。しかしキャラクターが「キャラ」(伊藤剛)として自律していないことは瑕疵になる。捨てられるキャラクターに感情が成り立つためには相互の欲望の交換が必要なのであって、「普通の長門」みたいにいきなりキョンを相手にもじもじしたり、自分の部屋に誘ったり、入部届けを渡したりしてもそこには全く欲望の交換が成立しない。その結果「捨てられるキャラ」を描こうとする前提が失調している。そういう意味ではやはりこの作品は失敗しているのだと思う。
とはいえ丁寧に作られている作品で、映像的には冬の曇天の光が繊細に定着している(新海誠の「秒速5センチメートル」もあるけどあれはちょっと違う。エフェクティブにすぎる)。日本のアニメーションでは、例えば「エヴァンゲリオン」などで夏の光がとても印象的に描かれており、以降ほとんどクリシェ化するほど「夏っぽい」画面作りが洗練された感があるけれど、「涼宮ハルヒの消失」が達成しえたアニメーション的成果があるとすれば、全編(劇中「夏の夜」も出て来てこれはこれで美しいが)を満たす、12月の曇り空からすけて世界を包む光の感覚だ。このことは作品の重要な部分に繋がっている。私はこの作品において描かれることの叶わなかった、不在の「普通の長門」の悲しみが、この画面を満たす冬の光に遍在しているように思える。