色彩の速度と時間/加藤陽子個展「命の言葉」


雨が降り出した時に発生する感覚には複雑なものがある。ふと顔に水気が落ちた、その瞬間に雨かな、と思う。そしてその最初の一滴が、ぱらぱらと無数の落下してくる雨粒にかわる。地面には点々と黒い水跡が増えてゆく。耳にはかすかな、そしてやがては確かな雨音が満ちる。鼻孔には濡れた土や草やアスファルトの匂いがやってくる。これらの情報の訪れは膨大で、しかも複数の事物が並列しているために精密に記述することがほとんど不可能だ。そして、この「雨の降り出し」という時間がちょっと特別なのは、それが一瞬でもなければ、安定した一定の長さでもない、独特の「短い時間」であるためだと思う。雨の降り出しは、雨が降り出す前でも、雨がまさに降っている、その最中でもない。両方の状態の移行の間の、常に変化し続ける「短い時間」。それはその短さゆえにうつろいやすい、捉えがたい時空なのだけど、同時に私は「雨が降り出すとき」のあの感じを、確かな感覚として思い出し反芻することができる。個々には全て様々な差異を孕みながら、それでも何度も繰り返し経験して来たあの感じ。


ギャラリー福山の加藤陽子の個展「命の言葉」で見ることのできた絵画作品には、このような、ささやかでありながら強い感覚を引き起こす何事かが定着しているように思う。キャンバスの裏地、麻の褐色の面に青、緑、黄色、紫、あるいは黒といった色彩のアクリル絵の具がドリッピングされ、あるいはブラッシュストロークが引かれている。部分的には乾燥していない絵の具が混ざり合っている。他の部分では乾燥したあとから重ねられている。キャンバスの地が露出しており、側面にまで絵の具があることから、これらの作品は木枠に張られてから描かれたのではなく、描かれてから張られたのだろうと推測される。F4号程度の作品からF100号までの作品と、サイズにはかなりのバリエーションがある。100号の作品には、靴の裏のような痕跡がある(明らかに意図的に配されている)。横構図がほとんどだったように記憶している。絵画作品と同時に、紙に書かれた短い散文がビニール袋に入れられ壁面にピン止めされている。


私が加藤氏の作品を見たのは2006年に言水制作室で行われた個展、そして2008年に今回と同じギャラリー福山で行われた個展に続き三回目になるのだけれども、過去の作品に関しては、私は加藤氏の画面に混濁したものをみていたように思う。それは、ごく単純に言って油絵の具の混濁であったといえる。乾燥の遅い油絵の具が、繰り返し画面にブラッシュストロークとして離発着をくりかえした結果、色彩の彩度は低下してにごっていた。これらの作品が失敗だったとは思わない。まさにその濁り自体に、加藤氏の油絵の豊かさは現れていたからだ。たった一つの明快なことを言い切るのではない、迷いや停滞や思いがけない発見や集中が、取捨されずに、あるいは糊塗されずに全て記述されていた画面は、濁りというよりは色彩豊かな靄の中に迷い込むような経験だったかもしれない。私はそこで何事かを言葉として発そうとは思わなかった。


今回の作品がクリアさを獲得しているのは、端的に画材がアクリル絵の具に変更されたからだろう。この変化によって、「絵の具の混ざり合い」と、作家自身の思考の複雑さが一応の分離を見せたと言ってもいいのかもしれない。もちろん、絵の具あるいは筆触と作家の思考が完全に切り離されているわけではない。実際、今回の作品群が乾燥と湿潤の明快なコントラストで構成されていながらなお単調ではないのは、麻のキャンバス地にドロップされた絵の具が交差する場所で、むしろ混ざり合いの偶然性を見定めるかのようにじっくりと絵の具相互の状況を作家が観察している、そういった加藤氏の「言葉」の痕跡があるからだ。加藤氏は単に勢いだけで描いているのでもなければ手法だけで描いているのでもない(実際、このようなドロップによる絵画で「良い感じ」を狙って作りはじめれば、作品はあっという間にただの模様になっていく)。問題は、アクリル絵の具の乾燥という、「瞬間」でもなければ「長い時間」ともいえない、ある種の「短い時間」に、加藤氏の思考が鮮やかに反応したところにあるのではないだろうか。


このような鮮やかさは「アクリルだから」「油絵の具だから」といった定常的なものからは生まれない。一定の備蓄を備えた油絵の制作期間から、異なる質の期間へと移行した、その変化自体をわしづかみにし得た加藤氏の感受性から発芽しているように感じられる。例えばぱっと散らされた絵の具の飛沫が持つスピード感がそのまま生かされつつ、同時にうねるような筆の速度も重ね合わされる。そして絵の具があっという間でも、長い時間をかけてでもない、アクリル独自の速度で混ざり・あるいは混ざらず定着してく時間が、色彩の彩度を保持したまま定着する。そのような出来事への、作家の驚き自体がありのまま絵画空間になっている。この後、この作家がアクリル絵の具の長い雨を降らせるかどうかはわからないが、そこで掴まれる時間もまた、油絵の具の時と同じように分析的な言葉では切り分けられない豊かさを持つかもしれない。もちろん私はそのような豊かさにうたれていく時間を静かに過ごすだろう。だが今回のような、「雨の降り始め」みたいな感覚には、思わず声をあげてしまった。