絵画と見るものの間で交換される揺れ/有原友一展

今年(2011年)3月11日、私は都内のビルの4階で東北関東大震災を体験した。この地震と、その後の繰り返される余震が一方的・暴力的な「揺れ」の感覚なのだとするならば、ART TRACE GALLERYで開催中の有原友一氏の作品が与える「揺れ」は、見る者-それは一義的には有原氏本人だと思うけれど-にそっとやって来て、見る者の受けた感覚を引き受け、反映しているように感じる。つまり、問答無用で人々に強制的に襲いかかる揺れなのではなく、見るものと画面の双方向的なやり取りの中から発振される振動なのだ。有原氏の作品はその薄く透明感のある筆触の短い痕跡を目で追うことによって、見る者に奇妙な運動の感覚を与えるが、この揺れる画面、うねり渦巻く力が軽い。音楽的と言ってもいい。あるいはダンス的と言ってもいい。


会場ではキャンバスに油彩で描かれた絵画作品が、大小様々に並べられている。1点だけ額に入れられ、紙にアクリルで描かれた作品がある。キャンバスサイズのバリエは0号から100号まである。いずれも下地の施された画布の地に、間隔をおいて複数の筆触が点在する。これらの筆触は短いのだが単に置かれただけではなく、置かれてから少しだけ引かれている、短いながらも軌道のあるタッチとなる。このタッチがときに渦を描く様に、時に波打つように連なっている。言ってみれば筆触の行列を上から俯瞰するような形になる。絵の具はやや薄く溶かれ、厚みのあるものではなく、水彩的なマチエールとなる。同系の色彩でまとまられたように見えるが、仔細に見れば緑の中に少し青いタッチの入ったり、紫の幅がかなり広くとられたりもしている。タッチの中で混色されることもあるが全体に濁りの無い画面になっている。


私は過去に有原氏の展示を3回見ているのだが、かつての作品は画面上に隙間は無く、むしろ力強いテクスチャーと豊かな色彩で描かれていた。どこかドローネー的なストライプが特徴的だった。この時の画面の力、山脈あるいは崖に露出した地層の歪みのような形象は、意思的で操作的な構築の結果だったと思う。凝縮してゆく筆触の連続が形成する密度は見る者への圧力となっていたし、2008年の段階ではそれが高度な完成の域に近接していた(参照:id:eyck:20080725)。そこでの一つの到達点を境に、有原氏の作品は昨年の年末のグループショーの時には分解をしていたように思う。画面は密度を下げて、むしろ風通しのよい画面へと変化した。このような移行は画家の計画というよりは作品がその内的論理によってそのように画家を導いた(あるいはそのように画家に強いた)というべきで、ここでは画家は描く人というよりは遥かに画面を見る人、正確には絵画作品が自律的に展開する論理を正確に読み取ろうとする人になっている。


冒頭で書いた、作品の産み出す振動が双方向的である、というのはこのことに起因している。描き手が作品を一方的に操作せず肯定的に観察し、気遣うように次のタッチ=“触れる行為”をおこなう、その結果として有原氏の作品は独特な優しさ、見る者への「気遣い」を内包していく。全体として、中型のサイズの作品に高い達成を感じるのだけれども、しばらく時間をかけて見ていると、最初ややタッチのブレ(コントロールしきれていない感じ)が気になった100号の作品が、品の良い収まりを超えた可能性をたたえているように感じられてきた。この作品では太い筆触が菱形に画面を埋めつつあり、その結果キャンバスのフレームが前景化しているのだけれども(その分「運動」が止まってしまいスタティックな方形に近づいている)、他の作品ではタッチ間のキャンバスの下地の白がはっきり「地」として機能していたのに比べ、ここでの地はどこか木漏れ日めいて前に出て来る明るさを発揮し、タッチとの関係において図と地の関係を固定化させていない。


印象派の色彩の点描的分解を単なる光の分解にとどめず、いわばキャンバスの上の、諸力のせめぎあう独立した新たな絵画空間として立ち上げたのがマチスだとするなら、有原氏の作品はそのマチスを現在において改めて内在的にリファーしなおしているように思える(内在的、と書いたのは、上記の様に有原氏の作品は作品自身による要請によって変化しているように思えるので、けして作家が事前にマチスを参照しようとしたのではなく、色彩とタッチの関係を追って行った結果としてある種の必然性においてマチス的になってしまったと想像するからだ)。一つのタッチを置き、短く引いた、その結果現れた運動の延長に新たなタッチを置きながら、有原氏はその都度変化する画面内部の力関係を観察する。言ってみれば色彩相互の政治がそのまま画面に定着しているとも言える。いずれにせよ今回の個展での有原氏の主要な仕事は描く事ではなく見ることだ。これは絵を描く時誰にでも可能なことではないし普遍的なことでもない。むしろ多くの画家は、あまりにも能動的に「描きすぎる」。


震災以降、津波に加えて福島の原発に重大な状況が続いている。この期間に様々な展覧会やアーティストの活動が停止に追い込まれたり企画中止の発表が行われたりした。被災された作家や美術館、ギャラリーの方々の無念を想像する。同時に、この困難な時期に様々な展示を続行・再開した人たちに私は力づけられた。この有原友一展も会期中の中断を挟んで再開された展覧会となる。敬意を表する。