未来に届く確信/フェルメール地理学者とオランダ・フランドル絵画展

Bunkamuraで「フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画」展。フェルメールの「地理学者」は2000年の大阪市立美術館フェルメールとその時代」展で見て以来の再見になる。


フェルメールは妙な危険性を持っていると私は思う。それを見た人は何かを言いたくなるし、その「言い方」を、フェルメールの作品の繊細さ、あるいは高度な緻密さに拮抗させようとしてしまう。勿論言葉でフェルメールに勝つことに意味はない。17世紀のオランダ・フランドルの絵画は近代的なレンズや光学の成果に影響されていて、全体に明るく理知的なものになっているのがこの展覧会ではよくわかる。フェルメールはそういう中で、周囲と十分以上の連続性と影響関係をもって作品を作っていて、まったく異星人のように突然出現したわけではない。同時に、やはり300年経過した時に周囲から浮かび上がってしまう特異性を持っていることも了解できる。時代の、あるいは環境の準備した枠組みの中で、そこからふと飛び出てしまうような仕事というのは、だから、ある種の交通事故のようなものかもしれない。しかしそんな事故も、意志の無い所には訪れない。同時代には極端な評判を呼ぶ事もなかったフェルメールは、しかし1枚1枚、孤独にちょっとずつ、確信した仕事を続けていって、その確信が100年単位の未来の私たちを驚かしたのだ。このような仕事の再生産に向けて思考することが大事だと思う。


「地理学者」は、例えば「恋文」のような恐ろしく緻密な空間計画があるのでもなく、「窓辺で手紙を読む女」のような、光を分解する感じがあるわけでもない。また「レースを編む女」のような、絵の具が溶け出てしまうような“事件”が起きているわけでもない。むしろ、画面向かって左手から流れ込む光によって空間全体がすくいあげられたようなフェルメール的奥行きの顕現自体がすっと見えて来る、ある種の「素直さ」が見て取れる作品だと思う。ここでのフェルメールはタッチをきっちりと、普通に置いて行って画面を構築している。2004年に東京都美術館で見られた「絵画芸術」では光線が粒子状に(絵の具の顔料と共振するように)微分されていたし(参考:id:eyck:20040721)、2005年国立西洋美術館で展示された「窓辺で手紙を読む女」では、絵の具の「塗り」が印象的だったが(参考:id:eyck:20050921)、「地理学者」はその間に位置するような、筆の運動、というか“移動距離”が中距離程度に収まる、堅実な作品のように思える。


今回の展覧会の魅力はフェルメールもさることながら改装中のドイツ・シュテーデル美術館の充実したコレクションを見ることができる事だろう。水準の高いものが多い。平日の午後に訪れたせいか混雑がなく、ちょっと拍子抜けするほど良い環境で多くの佳品を鑑賞できた。ヤン・ブリューゲル父子の作品は相変わらず工芸的でピーテル・ブリューゲル程の感銘はないのだけれども、今回の作品では画面全体を染める青の色彩が気になった。バルトロメウス・ブレーンベルフという画家のことは初めて知ったが、「聖ラウレンティウスの殉教」はバーベキューさながらに火刑に処される聖ラウレンティウスが生々しく描かれている。ルーンベンスの、遺された頭部の作品に弟子が画面を継ぎ足し1枚の完成作にした「竪琴を弾くダヴィデ王」は、その成立要因に死後も全てが流通していってしまう人気作家の悲しみとおかしみを感じるけれども、そうされてしまうのも腑に落ちるルーンベンスの筆力が見られる作品だろう。


肖像画セクションの佳品はなんといってもレンブラントの「マールトヘン・ファン・ビルターベークの肖像」で、人気画家として頂点にいたレンブラントの技量が定着している。「歴史画と寓意画」セクションにあるレンブラントはまったく良くない凡作なので、こういった職業作家として生活していた巨匠にもブレがあるということか。フランス・ハルスはこの種のオランダ絵画展では適宜数点出されていて、その度に「ハルス単体の展覧会があってもいいのではないか」と思うほど素晴らしい筆遣いを見せてくれる。今回も同様だが、しかし私はこの作家が、定まった評価を得ながらどうしてもレンブラントと同じ様には扱われない理由が分かった気がした。あまりに明快なブラッシュストロークの構築による肖像画が、どこか単調になっているのだ。とはいえ、反対に機械的ともとれる、「精神性」のないタッチの組立て、まるで「筆触チップ」をプラモデルのように順番に貼付けて行くシステマティックな制作が産み出すボリュームの有り様は、改めて再考してもいいんじゃないかと思う。


フランドル絵画の静物画はスペインとの影響関係の中で洗練されていて、優れた作品は単なる装飾的寓意画という範疇から逸脱しそうな感じがある。スペインのスルバランは完全に別の水準に静物画を持っていった作家だが、フランドルにはそこまでの達成を見せた作家は見いだせない。とはいえ、ラッヘル・ルイスの「ガラスの花瓶に生けた花」は押えたトーンの中で透明感と色彩の純度を良く保っており、1992年の国立西洋美術館での「スペイン・リアリズムの美」展で見られた諸作品に非常に印象が似ている。風景画・海景画は粒は揃っているものの、これこそ職業画家の「お仕事」以上のものは感じられず退屈だった。ヤコープ・ファン・ロイスダールの「滝のあるノルウェーの風景」が、川の細かい段差が作る小さな滝の水しぶきの描写に、妙な固執をした結果不自然な画面になっていて、そこだけ可笑しかった。