詩の切開する場/サイファー(Bottle/Exercise/Cypher vol.7)

恵比寿で行われていた詩人による朗読イベントのサイファー(Bottle/Exercise/Cypher vol.7)に行ってきた。


●4月29日(祝)のサイファーへの呼び掛け(下記に各国語訳あり)


今日は午前中から家の自転車小屋を家族で作っていて、午後3時に家を出た。最寄の駅から湘南新宿ラインを使えば恵比寿は一本なのだけれども、列車の出発時刻から数分遅く駅についてしまい、仕方がなく赤羽で埼京線に乗り換えるつもりでいたら寝過ごしてしまって、気づけば車内に「次は上野」というアナウンスが流れていた。自分の間抜けにがっかりした。上野で山手線に乗り換えた。恵比寿についたのは開始時刻の4時を20分以上も過ぎた時間で、急いで駅から出て代官山方面に歩いていたら、会場間近で僕より慌てた感じで早歩きしている人がいた。その後姿ですぐにサイファーを提唱された詩人の佐藤雄一さんだとわかった。両手にミネラルウォーターのペットボトルを持っていたので、きっと出演者の人用なのだと思った。声をかける勇気はなかったのだけれど、とりあえず佐藤さんについていけば迷うことはないと思って後を追ったらすぐに恵比寿公園で、遊具で子供たちが遊ぶ中で結構大勢のひとが緩やかに集っていた。


一次予選は既に終わっており、まもなく始まったのはゲストの方々と佐藤さんの、福島をめぐるお話だったのだけれども、やはり「本番」、つまり予選を勝ち抜いた詩人と福島からこられた詩人の和合亮一さん、飛び込みのラッパーの方、あと佐藤さんによる詩の朗読とラップが断然おもしろかった。ことに先陣を切った佐藤さんの、その場での即興だという詩の詠唱にびっくりした。口にされた言葉、それはたとえば「足音」とかそういう何気ない言葉なのだけれども、それの言葉の前後に連なる言葉がどんどんとずれていく。そのずれの中に、この恵比寿公園の様子や、遠い福島の状況などが織り込まれて、他の(共有されていない異なる次元の)言葉も織り込まれ、結果、流れている想像力が増幅されながら、しかし全体としては反復構造を持つことできちんとひとつの詩作品として明快な輪郭を描いている。「即興」というにはとても高い完成度と思える言葉の連なりだった。詩人とはまさに言葉を日々鍛えている人なのだなということが強く印象付けられた。


佐藤さんのプレイは方法的で、それはこういった場所で即興で詩を作る時のあり方としてオーソドックスなのかもしれない。けれども、僕が佐藤さんのプレイに驚いたのは、そこでの「方法」に、ほとんど「演出」のようなものがなかったことだ。他のプレイヤーの方々は皆それぞれに、たとえば声に抑揚をつけたり、興奮したような発声を交えたりといった、いわば聞き手の感情を喚起することをされていたのだけれども、佐藤さんの発話にはそういうものがあまりない。背中を丸めた、独特の長身から、およそ棒読みといっていいような、だらっとした語り口が最後まで続く。滑らか、というのでもなく、しかしどもるのでもなく、ほとんど日常の話言葉と乖離ないようなトーンで音声が積層されていくのだ。この平常な音声が、しかし上記のような、反復されズレこみながら様々な要素を取り込んでいく中で、結果的に確かにある種の「感情」としか呼べないものが湧き上がってくる。


正直に言えば、サイファーという、表面的には「対戦」の形式をとっている場では、何らかの「共感しろ」という圧力が働くのではないかという先入観があった。僕は先だって企画した「組立」で出した本に、佐藤雄一さんにサイファーの理論的バックボーンとなるテキスト「さらに物質的なラオコーンに向かって ―「固有値(Eigenwerte)」としての支持体を自己生成する」を書いてもらっていて(贔屓目なしに素晴らしい論考です)、である以上、サイファーという催しも当然今までに見ていてしかるべきだったのだけれども、今までその機会を逃していたのは、たまたま都合がつかなかったというだけでない理由があったと思う。しかし、今日この日佐藤さんの即興のプレイを見ていて、僕はほとんど実感のレベルで「固有値(Eigenwerte)」としての支持体を自己生成する」イメージを感知できたように思う。


佐藤さんとは違う意味でショックを受けたのは和合亮一さんの詩だった。ご自身の住んでいらっしゃる福島の、避難所にいる人に話しかけるような言葉から開始されたそれは、それこそ途中で怒鳴るような声からささやくような声まで帯域の広い音声だったのだけれども、これが「方法」に聞こえてこない。たとえば「余震で犬が吼えるんだ」というようなフレーズ(すいませんあやふやな記憶です)がそれこそひときわ大声で語られるのだけれども、その声が鳴り響いたとたん、うすら寒い体育館や公民館のようなところで、プライバシーも何もなく、衛生状態や食事などにも事欠いている多くの人の苛立ちや怒りが、そのまま僕の耳や心に飛び込んできたみたいだった。あるいは、冷たい水で家族を失った人の、ひんやりとした心持のようなものが、自分の気持ちに染み込み流れ込んでくるようだった。


こういう言い方をすると和合さんの意図とは外れてしまうのかもしれないけれど、このとき僕にとって和合さんの詩の発声は、福島の状況を、ほとんど脳と脳を繋げてしまうような直接的な情報として生に伝える強力なメディアだったと思う。どんな迫真のテレビの生中継も、海外メディアの撮影する鮮明かつ残酷な写真も、インターネットにアップされる様々な現地の動画も、今日の和合さんの詩の朗読ほど、現場の感情あるいは空気を、皮膚感覚として伝えたものはなかった。今日恵比寿公園で和合さんの声を聞いた人は、恵比寿にいながらまるで福島の避難所にいるような感覚を、一瞬でも刻み付けられたのではなかったか?暗い避難所の真夜中が、ふっとそこにあるみたいな、酷薄な感じ。それは演出で作り上げられたエフェクトではなく、単なる「そのもの」の提出で、都心の、穏やかな春の西日の光る公園、遊ぶ子供たちの声のある空間に「福島そのもの」が声で挿入されてしまった、この切開に僕は少しびびってしまった。てっきり投票と順位付けがあるのかと思っていたら(佐藤さんと和合さんのどちらに投票すべきなのか考えていた)なかった。忙しそうな佐藤さんに一言だけお声がけして、まっすぐ帰った。


事前のトークで、ゲストのミュージシャンの大友良英さんが、おそらく儀礼的に佐藤さんが言ったのであろう「福島のイメージを文化の力で良くする」というような発言に、ごく普通に「イメージをよくする必要なんかないよ。現実と向かい合えばいいんだよ」と言っていて、それはまったくそのとおりだと思ったのだけれど、いざその「現実」を詩の朗読として提示されてしまうとたじろいでしまって、自分て弱いなと感じた。あと、まったく関係ないことだけれども、会場で「組立」を見てくれたという学生の方に声をかけてもらって驚いた。展示の会場とかではないところで「目撃者」に会うというのはあまりない経験で、緊張してしまった。