フェノメナルなプラネタリウム/ART TRACE GALLERY・高木秀典展

両国のART TRACE GALLERY・高木秀典展。この展覧会に展示されている作品は3系統に分けられる。

  • アクリル板のブロックが4つ、壁面から浮かされて菱形に並べられた作品
    • 正方形のアクリル板が裏面に、十字の星型(手裏剣のような形)にマスキングされてスプレー塗料が塗布されている。このマスキングが取られた所は透明となる。
    • 同様に塗装されたアクリル板が積層されブロック状になる。
    • マスキングは徐々に小さくなっており、結果的にすり鉢上の透明部分が背景の壁面の光を透過させている。
    • 星型は形態が微妙に個々に異なる。
    • このブロックは4つ、真鍮の足をつけられて壁面に設置される。壁面とブロックの間には隙間がある。
    • どの作品も4つが均等な間隔で、ひし形になるように設置されてりいる。
  • アクリル板が積層され額装されて展示された作品
    • 上記の作品と同じようにアクリル板に型抜きされて塗料が塗布されているが、一枚に複数の型抜きがある。
    • また、壁面から距離がない。
    • 額に入っているので側面から光が入りこまない。
    • 2作品あり、ひとつは星型、ひとつは円形に型抜きされている。
    • 形の中心がずれている。
  • キャンバスに絵の具で描かれた作品
    • 綿布に油絵の具とアクリル絵の具で描かれている。どこが油でどこがアクリルかは不明。
    • 1点は2枚組。横長のキャンバスが隙間をあけ上下に設置されている。
    • 1点は4枚組。横長のキャンバスが上下、左右に、隙間が十文字になるように設置されている。
    • 1点は円形の単独の作品。
    • いずれのキャンバスも同じ青が微妙なムラを持って塗布されている。
    • その中に、やはり星型に抜かれたキャンバスの地のままの箇所が均等に並んでいる。
    • 星型は形態が微妙に個々に異なる。


アクリル板のブロックが4つ、壁面から浮かされてひし形に並べられた作品は、積層されたアクリル板のマスキングされた「穴」が、ブロックの中に空いているように見える。壁面と隙間があるため、塗料が塗布された部分は反射光で(完全な不透明ではないので奥まで届いた光が奥から反射されもする)、透明な部分は背後からの透過光で見られることになる。額に入れられた作品は反射光で見られるが、これも透明度の異なる塗料の塗布されたところ・されないところで反射率が異なっている。言ってみれば、油絵の具の半透明の色彩の発色の仕方を別の素材に置換して検証しているような見方ができる。この点に気づけば、キャンバス絵画が、透明色の青を用いて部分的に地の色を抜いており、かつ3点中2点は組み作でキャンバス間にスリットがあることが理解できる。高木氏は同じ問題意識をメディウムを変えて試みている。


その中で特徴的なのはアクリルのブロックによる作品だろう。上記のような透過光・反射光・半反射光の組み合わせによって構成される作品は、繊細で複雑な視覚現象として立ち上がる。彩度の最も高い黄色の作品で顕著になるのだが、いわば物理的な面の位置と、実際に知覚される光の位置にズレが生じ、視覚上のオブジェクトと実作品が乖離するように見えるのだ。ありはしないすり鉢状の空間があるように見え、表面を成していると思える「面」が、実は複数の折りたたまれた面の集積物であり、その位置、目が捕らえ漠然と「ここ」と定位する見かけ上の面の位置にギャップがあるような気になってくる。これはいわゆる絵画とも、あるいは彫刻とも異なる(オプティカル・オブジェクトともいえるだろうか)。


会場全体を見て、絵画の知覚のされ方−特に光のあり方を基点にしつつ、複数の角度から検証している作品群だと理解するのはそれなりに妥当だろう。だが、高木氏の試みは単なる美術史の反省・反復ではない(作品間のスリットの存在が重要であることを見れば、作品を含んだ環境すらも高木氏のモチーフになっていることが理解できる)。たしかにかつての美術作品、オプ・アートなどを踏み台にしながら、もっと野心的な射程をもっているのではないだろうか。カントは対象に認識が従うのではなく、認識の形態にそって対象が現象するのだと言った。これをカントは認識の「コペルニクス的展開」と呼んだが、私の理解が正しければ、高木氏の作品はまさに対象が現象するときに現れる我々の認識の形態をひとつひとつ確かめていくことによって、間接的に世界を把握していこうとする哲学者・科学者・エンジニアといっていいように思う。そして、そのような総合的な知のオペレーターを−かつてレオナルドやフェルメールがそうであったように−本来は、芸術家、と呼ぶことができたのだ。


絵画が、あるいは美術が、特定の独立した分野における知的・批評的な文脈の反転ゲームとなって久しい。それはけして良い、悪いといった話ではなく、近代という自己言及的な構造が確立された場所では不可避の事ではあった。しかし、高木氏の作品はそのような分割された場を十分に踏まえつつ、改めて美術作品を「世界」へと、そして「世界」の把握のあり方へと投げ返していく。緻密で、こう言ってよければ控えめな作品群がもたらすのは、私たちはどのように「世界」を捉えているのかという巨大な問いだと私は思う。同時にその手つきはなんの屈折も屈託もない、子供の実験のようなまっすぐさに満ちている。誰かの反応も評価もあてにしておらず、ただ「世界」への問いへの応答を待っているだけの作品たちに囲まれていると、なんだかまったく新しい、フェノメナルなプラネタリウムの下にいるような気持ちになってくる。展示は24日まで。